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広島で平和記念資料館にいくことの意味を考えてみたい

わたしが広島にいったとき、そこにはたくさんの学ぶ人たちがいました。小学生、中学生、高校生、大人、海外から訪れているだろう人。
展示から目を背けてしまう子、必死に展示物をメモする子、「平和って大事だ」とノートに書く子。
修学旅行で広島に行ったら平和記念資料館はきっと「学びを修める」のに適した場所で行かないという選択肢なんてきっととれない場所なんだろうと思います。

広島生まれ広島育ち(だと思われる)小学生にとって

※わたしは平和教育についてとてもじゃないけど明るいわけではないので、これと言った知識があるわけではありませんし、居合わせただけの方々について思ったことをつらつらと書いています。ちょっと見方が一方的な節は大いにあるとおもいます。

広島で育つ小学生は8月6日が登校日に設定されていて、そこで平和学習をするくらい、8月6日への意識が強いと聞いたことがあります。東京に来てその違いに驚いたとも聞きました。そんな広島の小学生と平和記念資料館で遭遇しました。
まず思ったのはとても熱心に学んでいるということでした。小学生のころ、あんなにまじめにメモとってたっけな。こんな生々しい画像や痕跡をその目で、目を背けずにみることができたかな。そのメモに書いている言葉をもう忘れてしまったのが悔しいのですが、ひたすらに彼らはメモをとっていました。そこまで何をメモするんだというくらいに。

もしかしたら、彼らにとってメモをとるという行為はいままでに聞いてきた話を自分のなかに落とし込む作業のようなものなのかもしれない、と思うようになりました。

広島の平和教育プログラムでは、小学1年生からずっと身近な平和から広島の歴史を学んできています。当然語り部の方からお話しを聞いた事例もあるだろうし、イラストで見てきたもの、写真で見てきたもの、お話から想像してきたものが目の前にあらわれるって相当すごいことだと思います。わたし自身、語彙力という語彙力が失われ、ただ目の前で立ち尽くすしかなくなるというようなことははじめてでした。語り部の方のお話しを聞いたことがないわたしでさえ、よくわからない感情に陥ったので、小学生たちもきっと思うことがあったのだろうと思います。語彙力失われたらメモはとれないんですが。

この考えにたどり着いてから、最近光村小5の国語の教科書に採用されている「たずねびと」ってすごくよい教材なんじゃないか、平和学習をする子どもたちの学びを追体験できるような魅力的教材であるという気持ちになりました。これは書いたら長くなりそうなので、別の機会にまた。(教育実習レポけっきょく書けてないなあ)

話を戻していきます。
彼らにとっての平和記念資料館での学びはこれまで学んできたことと実物をうまく組み合わせる作業であり、新たな何かに思いを馳せ、考えることであるような気がしました。目を背けてしまう子がいたのも、これまでの学びをヒントにした想像を超えていて耐えられなかったからなのかな、なんて思いました。(もちろんそれ以外にもあると思いますし、そういう映像がトラウマになってしまう子がいるのも分かっています、わたしも広島に生まれていたらたぶんトラウマでした)
彼らの平和の学びはこれからも続いていくだろうし、その途中で平和記念資料館を訪れることはきっと彼らの学びにとって

広島とは関係ない場所で育った高校生にとって

どこから来たのかもわからない、ただ制服を着ていて身長が高かったからきっと高校生なんだなと思った彼らは「平和って大事だ」と原爆の被害についての展示がおわったところにあるノートに記していました。
平和記念資料館ではたしかに平和のありがたみを痛感する、というか、痛感させられるし、それは分かるんだけど、あのむごいものをたくさん見て出る言葉か……?と思ってしまいました。わたしには「平和って大事だ」でまとめられるようなものではない、なんならこの展示から「平和って大事だ」には到底結びつかないと思えてしまったからです。「原爆が悲惨なものである」と「平和って大事だ」には何かしら関係はあるけれど、直接的につながるとは思えないのです。どうしても。
「原爆は悲惨である」→「原爆を落とすような戦争を起こしてはいけない」→「そもそも戦争なんてだめだ」→「平和って大事だ」
という関係があるのは分かっているんです。
なんでだろう。なんでしっくりこないんだろう。

わたしのなかのしっくり来ていない理由①は原爆は戦争であろうと使うべきでないと思うからなのかもしれません。もちろん何事もだめだけど、核兵器はあまりに非人道的すぎて、悲しすぎる遺産を大量に残しすぎました。でもそもそも戦争なんてだめだし、起こってほしくないから、平和って大事なんですよね……。あれ、しっくりきつつあるかもしれません。

しっくり来ていない理由②は「平和って大事だ」で終わらせることは当時のことを考えることの放棄だと思うからです。
「平和って大事だ」の言葉に戦争当事者は含まれているのでしょうか。
あの苦しみを考えたうえで、「平和って大事だ」につながるのでしょうか。あの苦しみからはわたしには苦しみと悲しみしか生まれませんでした。未来のこと、いまの自分のことなんて考えられなかった。

ちなみに未来へ向けた展示のところから、わたしは「平和って大事だ」と思うことができました。

この高校生にはその後平和記念資料館での学びをアウトプットする機会はあるのかなあ。あるといいなあ。


読み直さずに一気に公開してしまったので、読みにくいところもあると思いますがご容赦ください。最後まで読んでくださった方ありがとうございます。

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