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通天閣の下の赤ちゃん 第一話

 これからお話しするのは、昭和十三年の夏におこった小学三年生、十歳、ヒロシ君の喧嘩物語である。

 当時子供の理想的な喧嘩は、一対一の決闘であった。小次郎と武蔵が決闘がそうであるように、その昔、戦場では、お互いに武士は出処姓名を明かし、名乗りあってから、いざと勝負を始めるのが作法であった。そのようにすることが、子供心にも喧嘩の美学であった。これは洋の東西を問わない。西部劇のガンマンも一対一の決闘がクライマックスの華であることに変わりはない。それが正規の喧嘩ストーリーなのである。

 その頃は子供同士の決闘も一対一でよく行われたものである。

 ヒロシの決闘は明日に決まっていた。

 大人の後継人を双方から一人ずつ出して、二人の立ち合い人の監視のもとで決行する段取りは、すでに決定していた。

 たかが子供の喧嘩だろう。それをそこまでやってよいものか、立ち合い人までつけるとは大袈裟じゃないかと不審がる人がいるにちがいない。

 しかし、ヒロシから相談を受けたナポレオンは、全然訝る様子はなかった。短い真白な顎髭を撫でつけながら、一、二本抜くような仕草をしただけだった。

 「ふん、赤ちゃん。それで相手は誰やねん」と尋ねた。

 「レンガ裏のロクや」とヒロシが答えた。

 「ロクか、あれはあかんで、花田とこの小伜のロクウーやろ。あいつは凶暴や。もう小学校はとっくに卒業した筈や、親爺を手伝って土方の仕事をしとるらしいが、あれは子供とちがうぜ。年、なんぼ上や。なんでそんな奴と喧嘩するんや」

 「ロクはまだ子供や、それに明日やることに決まっとるから、もうしょうがないねん」

 「しょうがないことはないやろ。喧嘩の約束みたいなもん、別に守らんでもええがな、反故にして逃げてしまうからどうや」

 「逃げる……lと呟いてヒロシは一寸白い目になった。

 「そうや、逃げたらええんや。逃げるのはちっとも悪いことやない。世間には逃げるに逃げられないことが仰山あるんや、大人になったら分かるけどな、逃げられるうちが華やということもあるんや。そうやでえ。赤ちゃん。別に決闘なんか行かんでもええが」

 ナポレオンはそう言ってから煙草を吸いだした。

 ナポレオンのタバコの吸い方は変わっている。

 まず左手は指が二本残ってるだけで、三本はなくなって無い。その二本の指でマッチ棒一本とマッチ箱を挟み、左手に置いた煙草を右手でポンと叩く、そうすると空中で一回転して落ちてくる。それを素早く口に咥える。同時にマッチ箱も放り上げていて落下するや軸に当てて発火させる。そのようにして、煙草に火をつけるのである。この曲芸は二本指だけにすごい。まるでアクロバットだ。

 ヒロシはこの芸当を面白がって、ナポレオンによくせがんだものである。しかし、今は「逃げろ」というナポレオンの助言がどうも気に入らない。

 「それは卑怯というもんとちがうんかい。ワテは臆病者と後ろ指さされるのが一番嫌や。そうなってしまうがな」と拗ねてみた。

 二本の指しかない左手を、ナポレオンは滅多に人前では出さない。大抵、三番目のボタンを外した詰襟の隙間に腕を突っ込んだままである。その姿がナポレオンの肖像画にそっくりなのでナポレオンと呼ばれるようになったなったのである。


第一話終わり 続く

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