音楽の魔法はあるって言いたい
音楽の話になると、「この曲のおかげで受験を乗り越えられた」「この歌詞がきっかけで新しい一歩を踏み出せた」といったエピソードが登場することがよくあります。
私はそういうエピソードを見るたびに、心のどこかで「ほんとかなあ」と思っています。
もちろん、音楽で気分が変わることはあるし、曲やアルバムに励まされた経験もあります。
しかし、そういうエピソードが多くの場合非常にドラマチックだからでしょうか。その人自身の努力なり周囲のサポートなり、他の色々な要因を無視して「音楽のおかげだ」と思い込んでいるんじゃないかなと疑ってしまうのです。
詰まるところ、音楽の力をそこまで信じて良いのだろうか? という疑問です。
そんな私ですが、つい先日「音楽には確かに力があるのかも」と思う出来事があったので、そのことをお話ししようと思います。
ayutthaya の『ハイブリッド』を聴いていたのでタイトルが歌詞に引っ張られました。
今回の記事で書くのは別の曲のエピソードなのですが、すごく良い曲なのでぜひ聴いてください(布教)
それでは本題です。
数日前、私は DENIMS の『春告』を流しながら夕食を作っていた。
この曲は、いつ聴いてもほのかな幸福感を感じさせてくれる。しめじ山盛りの鮭のホイル焼き(すっごい秋ですね)を作りながらこの曲を聴いていると、1 日をあまり上手く過ごせなかったことへの寂しさも和らぐ気がした。
そのとき、取り出そうとしたお茶碗を割ってしまった。なんとかキャッチしようと一度空中でトスしたもんだから、まあまあな音が部屋に響いた。
昔から大きな音が苦手で、物が割れる音は特に苦手な音のひとつである。
というか物が割れるという状況そのものがかなり苦手かもしれない。ちょっと疲れていたときに卵を落としてひとり号泣したことがある。
一人暮らし 4 年目にして初めて食器を割り、そこそこ愛用していたお茶碗でもあるので、ショックは大きいはずだった。
しかし、私は至って冷静だった。淡々と破片を紙に包み、ガムテープで細かい破片を拾い、水拭きをした。ここまで 10 分かからなかったんじゃないかというくらいスピーディーな作業だった。代わりのお茶碗でご飯を食べているときも、翌朝も、お茶碗を割ったショックが襲ってくることはなかった。
面白かったのは片付け中の感情で、「まあこんな曲聴いていたんだからプラマイゼロだな」と思っていた。特に自分に言い聞かせようというわけでもなく、極めて自然に。
曲を聞いていなかった場合のマイナスは計り知れないのでゼロでも十分すごいと思うのだが、一瞬でもプラマイどちらかに振れることなく、ぴったりゼロになったことに謎の感動を覚えた。割った直後に悲しくなるわけでもじわじわ笑えてくるわけでもない、あまりにも完璧なゼロ。
書き起こしてみると小さい話ですね。数日経って、ご飯の準備中や夜中にお茶碗ショックが襲ってくることもないので、私の中であのお茶碗は完全に成仏したようです。
今も、「音楽のおかげ」と語る人のことを完全に信じられたわけではありません。音楽は娯楽であり、どれだけ真剣に聴いたところでテレビやゲームに夢中になることと本質的には変わらないという意識は根強くあります。
それでも、音楽には魔法のような力があるということを、今はちょっとだけ信じています。サカナクションの山口一郎さんの言葉を借りれば、音楽は薬にはならなくても、香水くらいの効力はあるんじゃないかな、と。
魔法にしてはしょぼすぎる? 良いじゃありませんか。音楽の魔法の力を借りて、日々の小さい憂鬱を乗りこなしていければそれで十分。その勢いで、大きい困難も勘違いしたまま乗り越えていけたら、それほど幸せなことはないじゃないかと思うのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?