プライド

物事をフラットに見ることが出来なくなる気がして、プライドを出来るだけ持たないように、持ち過ぎないように、ということを心掛けてきた気がする。プライドが邪魔をして、優劣をつけてしまったり、マウント取りに走ったりしてしまうことを避けるための、僕なりの予防線であった。福祉介護の仕事をする上で、利用者さんたちに対して、あるいは同僚や同業の人たちに対して色眼鏡で見ないための方法の一つがプライドを捨てることだったのである。
しかし逆説的に言うならばそれは、僕が如何に無意味なプライドに縛られていたかということに他ならない。自分の中にそういったものが存在しなければ、捨てる努力をする必要もないからである。そのことに気づいた上で、今はあえて、プライドを持って働いていきたいと考えている。
 
ここでいうプライドとは、介護する人間としてのプライド、誇りである。
介護士として、介護福祉士として、ヘルパーとして、介護職員として…名前や肩書は様々であろうが、介護を生業とすることに対して、または毎日行う仕事に対して、どれほどのプライドを抱いているであろうか。誰もが出来る仕事だけどする人が居ないからやっている、というのは誇りを感じられない。私たちは、介護に携わる者として、ユーザーである利用者に瞬間瞬間しっかりと向き合って、己の知識と技術を総動員して、自分が考え得る最良のものを提供できているだろうか。プライドをもった仕事とはそういうものではないかと僕はイメージしている。
 
介護とは利用者に寄り添う仕事などと簡単に表現してしまうけれど、それはそんなに簡単なことではないことにすぐ気付けるはずである。他人の人生に寄り添うって、どういうことだろう。その人らしい暮らしをサポートするって、何をどうすればいいんだろうか。常に悩みの中にある。AIみたく瞬間的に方向性を見出し、計画通りに事が運べばいいかもしれないが、そんなに単純に進むことは、まずない。十人十色、百人百様。人間というのはたとえ一卵性双生児であっても違う存在である。そして各々が何百何千という出会いと別れを繰り返して自分の人生を編み込んでいる。その集大成がその人の「暮らし」である。そう思ったら、その重さは計り知れない。寄り添うなんて、とんでもないと思う。自分より何十年も多く人生を重ねてきた先輩たちを本当に「分かる」ことは果たして可能なのだろうか。
 
突き詰めて言うまでもなく、完全には不可能である。しかし介護を通して利用者に関わることを選んだということは、「分かろうとし続けること」から決して逃げられない、ということなのだと心しておかねばならない。ユーザーの立場からすれば、人生のクライマックスをともに進んでくれる伴走者が自分のことを理解してくれていない(しようとしてくれていない)なんて、なんと心細いことだろう。
 
だから僕らは、出来るだけ、可能な限り、最大限理解できるように努力するのである。生活歴をはじめとした情報収集をする。病気について勉強もする。こころや身体のわずかな変化も見逃さない。チームでみる強みを活かして、自分が関われていないときの様子を共有する。食事が食べられなくなったとしたら、何だったら食べられるかと色んな種類や形態を試す。歩いたり立ったりするのが不安定になったとしたならば、少しでも足を動かす機会を作ろうとあの手この手で促してみる。リアクションが薄いとされる方に対して、どんな声かけが反応を得られるのか試す。どうしたら心を揺らすことが出来て、笑顔をもらえるのか。これらトライ&エラーを繰り返しながら毎日関わり続けることこそが、介護を生業とする者のプライドである。
 
何時いかなるときにでも。自分は介護の仕事をしていると胸を張っていられているだろうか。

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