あたりまえ

介護業界ではない人と何となく“仕事納め”がいつまでなんて話をすると、「いやー、やっぱ介護は大変ですね」なんて言われちゃうんだけど、少し考えてみれば、お正月休みが無い仕事なんてあちらこちらにある訳で、別に珍しくもなんともない。つまりは、自分の「当たり前」「フツー」がどこに軸を置いているかどうかだけの話である。


僕の実家は商売をしていたので、一年のうちで丸一日の休みは「1月2日」、つまり今日しか無いという環境で僕は育った。この業界に就職した僕は年末年始休暇なんてもらったことが無かったけれど、前述のような生育環境だったので特に不満に感じることはなかった。学校勤めをしたときに2年間だけ盆正月の休暇とゴールデンウィーク期間ずっと休みだったことがあって、それはそれは途方に暮れたものである。「どうやって過ごしたらいいんだろ?」って(笑)

すなわち、「お正月というのはしっかり休みを取って家族で過ごし、旅行や帰省をするための時間に使わなきゃ(自分もそうしてきたし)」という感覚の人にとっては「ゲ!休みもなくってしかも年越し夜勤かよ~」となっちゃうし、逆に「24時間365日の仕事はローテーションで誰かが担うから、お正月とかにぶつかるときもあるよねー」的感覚の人は「あ、今年は私か」ぐらいで受け流してしまうのかもしれない。

はっきり言って、これは感覚の問題である。別にいい悪いを言っていない。
言いたいのは、この感覚の軸にある「当たり前」の存在に留意したい、ということである。

上でも書いたように、この「当たり前」は成育歴や家庭環境に影響を受ける、非常にパーソナルな部分なのである。育ってきた環境が違う人と一つ屋根の下で暮らしたことのある経験をお持ちの方々はお分かりと思うが、おそらく、この「当たり前」こそが大なり小なり、多かれ少なかれ家庭内紛争の火種となっているのではなかろうか(注:あくまでも推測です…苦笑)。

介護の仕事は、壊れてしまった当たり前を取り戻すという側面を持っている。病気や障害で出来なくなったことを一緒にできるように支援するとか、リハビリと協力して若いときの愉しみをまたやってみるとか。もっと簡単に言うならば、要介護状態になって自分の家で暮らすことだってそうである。
だから、クライアントの当たり前をしっかり受け止めておかねばならない。言葉でも感覚でも。この軸がブレていたり、あるいはニーズとマッチしていなかったりしたら、頓珍漢なお手伝いになってしまう。対人援助のイロハで習う「受容」そして「共感」はここにこそ使うのである。何故生活歴を細かく尋ねるのか。バックボーンを知ろうとするのはどうしてか。「あなた」の、「あなただけ」の当たり前の居場所を知りたいからである。

<追記>
今回“あたりまえ”をテーマにしたのは、年末に2020年を振り返る番組やサイトを見聞きしていたときに、「今年は新型コロナウィルス感染拡大という世界が未だ経験したことの無い未曾有の経験を人類がすることになりました。今まで出来ていたことや行ってきたことが形を変えざるを得なくなりました。どうか来年は、完全に終息とはいかないかもしれませんが、再び、平穏な日常を取り戻すことができることを願います」という論調に多く接したからです。

僕自身も暗いトンネルの中に居る気がして、光が見えないかなあ、出口はどこかなあ、といつも手探りしている訳ですが、少し見方を変えたときに、withコロナ・afterコロナ世代の子どもたちにとっての当たり前はどんな感じなんだろう、って考えたんですね。多分ソーシャルディスタンスなんて当然な人間関係。大勢で集まって飲み食い、唄って騒ぐことや、ギューギュー詰めで盛り上がるスポーツ観戦や音楽のライブは存在しない。イメージはしにくいけど、ある程度それに近い形にはなるかと。これまでの価値観が「奪われた」ような気持ちだったけど、考えてみれば大きな変化の流れの中にあるだけなのかもしれません。そう思うと、2019年までの日常に「戻る」または「取り戻す」ことを目指すのではなくって、2021年からの“あたりまえ”をひとつひとつ創っていく作業をしていかねばならないのかな、と。

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