『ラグビー憲章』 介護訳(1)

 去年の今頃を想像すると現状とのあまりの違いに信じられないくらいであるが、一年前は日本中がラグビーに沸いていた。日本代表の活躍に老いも若きも手に汗握って応援し、以前は閑古鳥が鳴いていたスタジアムが観客で溢れ、選手はテレビで引っ張りだこ、もてなしの姿勢に感激した各国の 選手や応援の人々が SNS を通じて日本の良さを世界に拡散させるなど、おそらくワールドカップを招致した人々が想定していた以上の結果が生まれていたのである。

 僕自身は少年の頃にドラマでこのスポーツを知り、関心はあったが実際に観たのは学生時代、先輩に連れて行ってもらった秩父宮ラグビー場での全早慶戦であった。その躍動感に心震えたものである。身近ではなかったが親しみのある、好きなスポーツとして以後ずっと僕の中にある。そんなラグビーが一気に脚光を浴び、あらためてその競技を調べてみると『ラグビー憲章』というものに辿り着いた。 『ラグビー憲章』とはその競技に携わる者たちが守るべき、指針とするべき5つの言葉を挙げたものである。この度の盛り上がりの中でも、ノーサイド精神をはじめとするスポーツマンシップが着目されたラグビーではあるが、『憲章』に掲げられたこれらの言葉を読み直してみたとき、僕ら介護業界でも共通事項として捉えられるものを見出すことが出来た。一度、介護・福祉の視点から『ラグビー憲章』を読み直してみたい。


 『ラグビー憲章』には、<品位><情熱><結束><規律><尊重>、5 つの言葉が挙げられている。 これらに順番や優先順位が存在するのかを僕は知らない。なので、紹介する順番が異なったり、場合によって解釈の仕方が本来の意味とは違ったりする可能性がある。ラグビー関係者ならびにラグ ビーを愛する方々にはあらかじめご容赦いただくようお願いしたい。
その中から今回は<尊重(respect)>について書いてみる。


 スポーツの場合は対戦相手やチームメイト、応援してくれる人々などに対して常に敬意を持つべし、 それこそがスポーツマンシップと言われ、万人の疑いの余地が無いところだろう。人種差別的な応援でもあろうものなら容赦なく無観客試合など厳しい沙汰が下りる。 一般的に、相対する人間(ときには間接的な接触もある)に向けて敬意を持つべきとは現代社会において考えられている。僕たち福祉のギョーカイに居る者は特に、相手がどんな障害や病気を抱えて いようが、家庭環境が複雑だろうが経済的に貧しかろうが、出自、国籍、性別なども含め唯一無二の存在として尊重し関わるよう教育されているし、その理解の上で仕事をしている、はずである。 今更老人福祉法を持ち出すまでもなく、高齢者福祉介護の利用者たる高齢者が人生の先輩として敬われるべき存在であることに寸分の狂いもない。 しかし世の中には尊敬・尊重・敬意の真逆である虐待行為(グレーゾーンである不適切介護も含む) が存在する。


それは何故なのであろうか。僕らが、至らぬからなのだろうか。


 介護保険事業所・施設では、虐待防止に関する研修の定期的受講と実施が義務付けられている。 僕の受講や話をした経験から言うと、それは概ね「虐待とはこういうものです。みなさんそのような 状況にならないよう気を付けましょう」であったり、虐待の遠因と成り得るストレスを軽減する方法のレクチャーであったりするのだが、基本的に「そんなことはわかっている」のが受講する立場からの声 である。相手を傷つけたり大切にしているものを奪ったりしてはいけないなんて幼児でも知っていることで、大の大人になってからあらためてダメ出しされるような話でもない...と思いがちなのだが、 実はここに大きな落とし穴があることに、僕は気づいてしまったのである。


 ご存知の通り、人間とは実に弱い存在である。欲に負けてしまうし、感情に流される。それは大人に なっても変わらない。いや、大人の方が建前がある分だけかえって弱いかもしれない。言い訳か方便かわからないウソをついてしまうし、弱みを突かれると狼狽える自分が居る。僕は平和主義者だけど、 もし戦時下に生きていたとして「非国民」となじられてまで戦争反対を貫けたかどうか。その自信は、ハッキリ言って、無い。繰り返しになるが、ホント弱いのである。
 さて尊重と虐待の話に戻ってみると、「(虐待を)やらなくって当たり前、する訳ない」と思っているうちは危うい、ってことである。簡単に言うと、いつでも僕自身が虐待者に成り得る、ということである。 一つ間違えれば、どころじゃなくって、意図せずに自然にそうなってしまう可能性は、いくらでもある。 自分はそのつもりでなくとも受け手にそう捉えられるとか、周りから見聞きしたら明らかにそう、とい うことだって大いにあり得る。 僕はお釈迦さまやイエス=キリストではないので、慈愛に満ちた心で周りのすべてを捉えるなんて出 来っこない。僕自身の虐待予防策は、自分と相手とにしっかり興味を持つこと、である。言ってみればそれは敬意・尊重にもつながるかもしれない。 弱い僕が、いつ相手を傷つける言動をするかもしれないといつも思って、自分の気持ちの動きや身体の調子に興味を持っておく。そして対する人にも興味を持つ。どんな人だろう、今日はどんな気持ちかな、調子はどうかな、なぜそんなことを言うのだろう...などなど。アンテナを張っておくのである。 相手に興味をもって知ろうとすることが、きっと人間関係を前に進めるはずである。虐待を人間関係 の不具合と仮定するならば、興味からの前進によって改善できるかもしれない。勿論虐待事案がそれぞれ複雑な背景をもっていることは存じているつもりであるが、まずは自分の弱さと向き合い、自らを認めることから始めたい。

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