「安」?

安全・安心・安楽・安定・安寧…数年前、ケアマネ更新研修で講師の先生から「ケアプランの中で使ってはいけない言葉」と言われた言葉たちである。介護計画の長期または短期目標によく掲げられた(今も掲げられている)これらの言葉がなぜ使うなと言われてしまったのか。それは、これらがもつ曖昧さ、抽象性が故である。安らかという言葉は耳心地がいいばかりでなく、実際に心身が気持ちのいい状態にあることをいとも簡単に表現してしまえるのである。利用者のココロとカラダがニュートラルでいい感じに力が抜けている「幸せ~」な状況を伝えるのに、これ以上の言葉はなかなか見つからない。だからすぐに思い浮かんでしまうし、ケアマネさんたちが知恵を絞って絞りつくして出てくる言葉も結局これらなのである。
 
講師の方たちは、安易に(←あ!ここにも!)これらを使ってくれるなと啓蒙したわけだが、要はもっと具体的に表現して評価できる尺度を示せよ、という意図であった。「安」ワードは主観的でもあり、解釈が如何様にでも可能である。「本人の安心」は何をもって達成/未達成とするのか。「安定した生活」はどのような暮らしの姿を示すのか。
 
僕の私見を云わせてもらうならば、上述の通り、「幸せ」の表現としてこれ以上ない稀な表現と考えているので、利用者の幸せな暮らしをサポートするという僕らのミッションからすれば決して排除されるべき言葉ではないと思う。目標として掲げられることに異存はない。ただし、その言葉が示すところを具体的に補足説明でき、関わる人たちがそれをほぼ同義に認識できるという条件付きである。
 
人はどんなときに安らかな、幸せを感じる心持になるのだろうか。
好きな人や大切な家族・友人たちと時間を共にしているとき。お腹いっぱい大好物を食べたとき。大好きな音楽を聴いているとき。趣味に没頭しているとき。キレイな景色を見たとき。一仕事終えてビールの一口目を喉に流し込んだとき。ほっぺが落ちそうに美味しいスイーツを食べているとき。寝ているとき。友だちの幸せな報告を受けたとき。とにかく天気が良かった。今日は通じが良かった…などなど、人によって様々であり、スポーツの応援など場合によってはその場に居る多くの人と共有できることもあるけれど、感じ方とその度合いは他者と同一ではない。押し売りすることも出来ない。
 
利用者の幸せな暮らしの演出家として介護士は汗を流すのだから、その、個別性がものすごく高い目標設定にまずは向き合わねばならない。その上で自分たちがどこまでどのようにできるのかをチームで話し合っていくことが求められる。とことん突き詰めてみよう。情報を集めてみよう。失敗を恐れずトライしてみよう。時には読み違えて本人から叱責されることだってあるかもしれない。でも時間が熟成してくれることだってある。必ずしも毎日常時ハッピーである必要がないことはお分かりいただけると思う。幸せな時間が一日の内で一回でもあれば、人は結構笑顔でいられる。逆も然りだけど。
 
とっかかりとしては、自分の幸せな時間を見つけてみるといいかもしれない。そこから他人を見てみると、自分と違う幸せの存在に気付けるかも。
ちなみに僕は、休みの前に夜更かしして布団の中でマンガ読んで懐メロ聞きながら寝落ちする、あの瞬間に至福を感じる昨今である。
幸せって、何だっけ~♪

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