プロか否かの境界線

毎日忙しく現場で働いていると、一つ一つの言動の意味や目的がなおざりになってしまうことがある。日々、与えられた役割をこなしていくことにとりあえずは目を奪われ、本来何のためにそれをするのであったかという「目的」や、何故その行為をするべきなのかという「根拠」がどこかにいってしまって、決まっていることをただ遂行することだけで終始してしまう。
 
僕らが工場の中にある一つの機械で、ある部品を正確にある場所にセットするというだけの役割をひたすら与えられているのならば、それでもいいだろう。でも毎日何か変化してくる、同じ相手が二人といない「人間相手」の仕事をしている僕たちにとって、極論を言えばルーティンワークというものが存在しないと考えても良いのではないだろうか。
人間を相手にしていると、対象者その人だけではなくって、周囲の関係する人たちの存在がどうしても入ってくる。家族とか、近所の人とか、僕たち以外に支援する人たちとか。それぞれの思いや思惑が交差する中で人間一人の暮らしというものは揺れているのである。
 
認知症を抱えながら一人暮らしをしている人が居る。短期記憶は鮮やかなくらい失われているけれど、近所の人たちが声をかけたり一緒に出かけたりしてくれる中でどうにか生活を保っている。ときには見知らぬ人に助けられて家に帰ることが出来たこともあった。しかし徐々に不可解な行動が現れてきて、これまで好意的に支えてくれて来た近所の奥さん方から苦情が出るようになった。結果、近い将来の入所を見据えて介護サービスを増やしていくことになったのである。
僕らは毎日お昼に薬をもって訪問することからその方への関与を始めた。そこから週1回お風呂に来てもらえるようになるまでに数か月を要し、その後お昼のお弁当を持っていくようになり、ときには泊まってもらえるようになった。僕らスタッフや他の利用者さんたちとの関係(顔なじみ)が出来るようになってきたかな…と思ったところの近所からの苦情、入所の方向であった。
 
先日のミーティングでこのケースについて話したところ、プロフェッショナルとして反省するという言葉が出てきて僕も大いに自戒することになった。その方が認知症状の進行に伴って起こしかねない行動を予測し、それを周りに説明するなど予防線を張ることが出来なかったか。近隣の人たちに自分たちの支援活動や連絡先について説明し、いつでも一報入れてもらえるようにできていればもっと違う形になっていたのではないか。
そもそも毎日訪問するときに、何のためにその方のお宅に伺っているのか自分なりに明確であったか。ただお昼のお弁当をもっていっているのではない。そうしてお宅を訪問して、どんなことを観察してこなければいけないのか。僕も何度となく伺っているが、多面的な視点でその方の様子を把握できていたとは言い難い。利用者さんが一日でも長く自宅での生活を送っていくことをサポートするという僕たちの役割からすれば、あらゆることにアンテナを張って、わずかな変化も見逃さない姿勢で毎日接していかなければならない。持てる知識を総動員して、今この利用者さんがどの状況にあるのか、これからどんなことが予測されるのか。これから出てくるであろうハードルを回避するためにどんな手を打てるのか考えて、先手を打つ。それこそがミーティングでスタッフの口から出た「プロフェッショナル」としての姿勢である。
 
僕たちは専門職として社会の中で存在する以上、そこに課された役割を果たすことから逃れることは出来ない。起こった事象に対して一つ一つ対応していくことも必要ではあるが、日々行うケアの目的と意図を理解し、起こりうるリスクを想像して回避することや予防に努めることがもっと良きステージに利用者の暮らしを運んでくれるはずである。そのために幅広い視点を持ち、支援者同士の意見交換を厭わず、学び続けねばならない。
一つ一つのケアの意味を知り、実践し、共有できるチームこそがプロフェッショナルの集団。
大いに気負って、そんなチームになりたいと願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?