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スマートロックのせいで家に入れなくなって6万円失った話

1.鍵。それは大切で厄介なもの

 世界を豊かにした発明の1つは間違いなく鍵だろう。これにより、多くの人間が他者から隔絶しておきたいものを自分だけのものにしておける。財産、家、車、心、アカウント、ありとあらゆるものが当然のように錠を持ち、それらにふさわしい鍵を持つ者だけがそれらにアクセスすることができる。
 我々は余計な心配事をせずに日々の生活を送ることができる。僕のように、鍵そのものの紛失を心配しなくても良い人間以外は。
 強固な鍵はすなわち、それを失ったときに選択できる代替的な開錠手段が少ないことを意味している。そして、最も強固な鍵のひとつが物理鍵だ。これは鍵そのものを手にしている人間にしか使うことができない。僕は物理的な鍵が嫌いだ。鍵は好きな時に複製でき、もっとバーチャルであるべきだと思っている。(バーチャルであれば、失くしやすい小さな金属辺に気を取られることはない)。
 そう思って、僕は自宅の鍵をスマートロックにしている。使っているのはこれだ

 貼り付け型のロックで、別売りのハブを買えば遠隔で鍵を開け締めできる。購入当初は頼りなかったソフトウェアも、アップデートを重ね、割と便利なものになっている。スマートウォッチからの開けしめ、鍵の共有、位置情報での自動解錠、オートロック、この鍵があるおかげで、僕は家を出る時に鍵を探すという非生産的な行為から開放された。
 しかしながら、この鍵によって僕は尊厳と6万円を失った。

2.疲れている時の外出は危険だ

 その日、夜の20時ごろに在宅勤務を終えた僕は、洗濯物を抱えて近所のコインランドリーに向かった。都内の狭小住宅である我が家には室内に洗濯機置場がない。そのため、引っ越してきてからずっとコインランドリーを使っている。コスト的は高いが、洗濯機のメンテナンスから開放されただけで、僕にとっては金銭的な損得を超えたメリットがある。
 その日、疲れていた僕は財布だけを持って家を出た。そして、家から1分程かけて近所のコインランドリーに向かった。洗濯物を入れ、カードを入れ、洗濯物がローラーの中で揉まれている様子を見ていた。まるで人間の人生のようだ。知らない連中と混ぜ込まれ、望んでもいないのにぐるぐると辛い目にあう。そんなことを考えている時に、僕はスマートフォンを自宅に忘れたことに気がついた。そして、僕の脳髄は冷静に、自宅の鍵が解錠してから20秒で閉まることを思い出した。
 半袖にジーパン。ポケットには財布。僕にはそれ以外何もなかった。家の鍵を開けるためのアイテムは何一つ持っていない。スマートウォッチも、スマートフォンも、物理的な鍵も、その全ては冷たく動かない自宅の扉の向こうにある。
 この時に僕が取れる手段は以下の3つだった。

①公衆電話を見つけ、家族に連絡を取り、スマートロックのアプリをインストールしてもらい鍵を開ける。
②鍵屋の連絡先を調べ、お金を払って鍵を開けてもらう。
③親切な人のスマホを借り、そこにアプリをインストールして鍵を開ける。

 このうち、②は最終手段だった。以前鍵を失くして鍵屋を呼んだ時、けっこうな金額を取られそうになったことがある。
※その時の出来事をnoteに書いたらプチバズリしたが、心の傷は癒えない。

となると、取れる手段は①か③のどちらかだ。

3.①公衆電話を見つけ、家族に連絡を取る作戦


 この作戦には2つの欠点があった。まず、僕の離れて暮らす家族はみなITに疎く、スマートロックのインストールからログイン、操作までを電話だけで誘導しきることは難しいかもしれないということ。
 そして、これが最も厄介な障害なのだが、僕が家族の電話番号を一切憶えていないということ。自分の頭の中にはある1名分の番号が記憶されている。ただし、それが家族のものなのかは分からない。たぶん母親の番号なのだが、確証がない。これを読んでアホだなぁと思う人もいると思うが、そんな人は紙とペンを用意して記憶している電話番号をそこに書き出して見てほしい。2つ以上の番号を書き出すことができた人間だけが僕を下に見る権利がある。
 僕は家の近所で運良く公衆電話を見つけ、そこでその番号に対して電話をかけた。なんどかけても繋がらない。1000円分くらいは使った気がする。(そのうちの120円は不安を抑えるためのコーラ代だ。)
 僕はそこでこの作戦を止めた。これ以上の出費は無駄だと思ったからだ。この僕の電話が、家族に別の意味で不安を与えたことは最後に書く。

4.③親切な人のスマホを借り、そこにアプリをインストールして鍵を開ける。

  鍵屋は最終手段だ。彼らは傭兵のようなもので、自分の力で勝てなそうな場合にのみ、彼らを用いるのが適切だ。
 そこで僕は、人からスマホを借りる作戦を開始した。しかし冷静に考えてみると、これは通報されかねない作戦だった。あなたが道を歩いているとき、急に現れた男が「スマートフォンを貸してください。そこにアプリを入れさせてください。」と頼み込んできたら、あなたの危機センサーは真っ先に反応するだろう。なにかと理由をつけて断り、近くの交番に駆け込んで、あっちに不審な男がいると伝えることだろう。
 そう思った僕は、少なくとも自分の顔を知っている人間を見つける必要があるだろうと考え、近所のコンビニに向かった。そこで普段僕は買い物をしている。店員は僕の名前こそ知らずとも、この顔は憶えているはずだ。
 そうして、幸いなことに、レジの中国人店員が僕にスマホを貸してくれた。なんていい人なんだろうか。レジにできはじめた行列を別の列に流しつつ、僕の試みを見守ってくれている。将来僕か彼が政治家になったら、日中間の友好関係はより良いものに変わっていくことだろう。
 だが、その思いは早々に打ち砕かれた。彼は表情にこそ出さないものの、指先でカウンターをたたき出し、この状況-自身のスマートフォンが顧客の手の中にあり、えたいの知れないアプリケーションを動かされている-にイラついている。僕はそれに耐えることができなかった。彼に謝罪し、スマートフォンを返却した。これにより、誰かのスマホを借りて鍵を開けるプランはクローズした。

5.②鍵屋の連絡先を調べ、お金を払って鍵を開けてもらう。

 こうして、僕が取れる手段は次々に消えていった。残ったのは、コストの面で最も避けたい方法だ。
 僕は家の近くのシティホテルに向かった。だが、今の恰好はTシャツとユニクロのステテコだ。さすがにこの格好でここに入るのはまずい。
 コインランドリーに戻った僕は、すでに乾ききった洗濯物の中からパーカーとジーパンを選び、トイレでこっそりと着替えた。これで少しはマシになる。

 あらためてシティホテルに向かった。いつもここの地下の理容室で髪を切っている。その時とは違い、すべての自尊心を失った状態でここに向かっている。僕はこの都市における完全な敗者だ。他者とのつながりを失い(スマホは家にあるから)、帰る場所も失い(家に入れないから)、この都市を歩き回っている。それは故郷を追われた人間が、一人で生き抜くために次の土地を探して流浪している行為に似ている。帰る場所はあるのにそこに帰ることはできない。
 シティホテルのコンシェルジュに事情を伝えた。ジーパンにパーカー、サンダル姿の僕を見て一瞬不信そうな顔をしたが、僕の真摯な態度が心を打ったのだろうか、PCデスクの前に座らせ、鍵屋を探し始めてくれた。
 日頃の仕事で鍛えた調査能力のおかげだろうか、彼は検索画面の一番上、リスティング広告に載っている鍵屋を私に見せ、電話機を貸してくれた。仕事柄この手の広告は信用しないようにしている。「料金明朗、安心!」のような文字列は嘘だ。世界に安心なものなど存在しない。
 それでも、僕はいち早くこの問題-愛する我が家に入れない-を解決したかった。もうここで良い。ここで良いのだ。人間は疲労が重なると意思決定の精度が下がる。それを実感した瞬間だ。
 僕は電話機を借り、この鍵屋に電話をかけた。僕が何の連絡手段も持たない人間であると知ると、鍵屋は僕の服装を聞いて電話を切った。

6.救済来たり

 マンションの前で1時間ほど待った気がする。その間、僕は自分の人生を反芻していた。何もすることがないときは、自分の過去に意識を向けてしまう。そうして、自分がこれまでたどってきた選択のひとつひとつが、本当に正しかったのかを念入りに点検する。出荷前の製品を見るが如く、様々な角度からそれを見直す。だが、それは別に何かを生むわけではない。振り返るという行為そのものを再検証し、過去を見つめる自分に酔っているだけだ。
 鍵屋は白いバンに乗ってやってきた。前回の真面目そうな青年とは違い、チャラそうな男だ。男は僕の家の鍵を見るなり、この鍵はセキュリティ性が高いから難しいと言っている。(でも、うちの鍵はセキュリティに欠陥があるから廃盤になったことを僕は知っている。以前別のスマートロックをつけようとして鍵を調べたときに知ったことだ)。
 そうして、鍵屋はこの鍵を開けるのに6万円がかかるなんてことを言ってきたのだ。驚きだ。以前開けたときはその6分の1程度の金額だった。それがまさかこんな大金になるとは。
 この男には値下げ交渉も通じない。料金は全て決まっていて、値下げに応じたら会社から処分されると宣っている。彼が手に持つスマホ、その待ち受けには小さな子供が写っている。
 僕が6万円の出費を削減しようと試みることは、結果としてこの子供の生活を奪うことになるかもしれない。これは倫理的にあってはならないトレードだ。僕は未来に希望を抱いていない。だとしたら、自分の1ヶ月の余力ある生活より、未来ある子供の暮らしを守るべきだろう。僕は鍵屋からの提案を飲んだ。それでいい。そうすることで、名前も知らない子供は明日の糧を得ることができる。
 鍵屋は僕の同意を得ると、饒舌に話しながら鍵の解錠作業を始めていった。その手順は以前見たものと同じだ。ドアの覗き穴を外し、器具を入れ、器用に鍵を解錠していく。ドアのサムターン部につけられたスマートロックを見たとき「最近コレでやっちゃう人多いんすよね〜。みなさんオートロックで締め出し食らってますよ」と嬉しそうに言っていた。
 こちらも笑うしかなかった。自分の生活を便利にするテクノロジーによって、僕は自分の生活を失いかけたのだ。アルゴリズムに従う強力なマシンが人間を駆逐する映画がよくあるが、それに出ている人間の気持ちになった。この鍵が、ターミネーターのように人間に反旗を翻す日も来るのだろうか
 カードで支払いを終えると、彼はバンに乗り帰っていった。そこには口座から6万円が消え、惨めさだけが残った男が一人存在していた。

7.解錠後

 帰宅。たった2文字ながら、それはなんと甘美な言葉だろうか。家に入り椅子に座った僕は、真っ先にタバコを咥えた。と言っても最近はアイコスばかりだ。人工的な煙を吸いながら、健康的な喫煙と称した人体実験に参加している。
 そうしながらスマホを見た。LINEがいくつか来ている。急に音信不通になった僕を心配するパートナーからのLINE。公衆電話からの着信に怯える母親からのLINE。そして、そんな母親の事態を伝え、僕の安否を心配する妹からのLINE。父と別れた母と妹は非通知な連絡のすべてが、別れた父親からのものではないかと心配している。それは安寧を崩す警報音のようなものなのだ。
 でもそんなことはどうでも良いのだ。僕にとって、こうして家に入れたことが、何物のも勝る幸福であり、不幸を忘れる瞬間なのだ。人間は時々危機的状況に自らを陥れることで生を実感できる。恐怖や焦りこそ人生だ。

ちなみに、この話を同僚たちにしたところ、前職からの腐れ縁の同僚が本当に同情して昼食をごちそうしてくれた。2000円くらいする牛タンだ。感謝しかない。(30人より多くの人が奢ってくれたら鍵をなくすことはひとつの投資として成り立つかもしれない。)

8.まじめにスマートロックを運用するためには

 蛇足的だが、スマートロックでこのような目に合わない方法を書こうと思う。
①キーパッドがついたスマートロックを買おう
 ・スマホからしか解錠できないスマートロックは僕のような人間には不向きだ。キーパッドなどをつけて、手ぶらでも安全に解錠できるものを買おう。

②合鍵は複数の家族や信頼できる知人に渡しておこう
 ・多くのスマートロックは解錠コードのようなものを共有できる。これを人に共有しておくと、最悪のときに公衆電話を見つければ鍵を開けることができる。もちろん、その人への連絡先はスマホ以外の場所にも保存をして持ち歩く必要がある。

この2つを徹底しておけばきっと僕のような目には合わないだろう。家に入れなくなるということは、お金を失う以上に、自分のダメ人間さを突きつけられて辛い思いをする。こんな思いは人生にはなんのプラスにもならない。           


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