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おしりに関する相対性理論 イスラム教と日本人の違い。

今日はいい天気です。
北国の雪も、勢いよく解けていきます。
春の味、フキノトウもスーパーに並んでいます。

さて、今日は、南国に赴任中の、私の失敗談から、
イスラム教徒の立場についてお話しできればな、、と思いました。

ちょっと汚い話になりますが、お許しください。


南国にある2億7千人が住んでいる東南アジア最大の国に赴任した時、、
ちょっと非日常の体験をしました。

赴任して間もないころ、よく下痢をしていました。


とある休日に、それが来てしまいました。

その日、この国最大の植物園に行ってみました。
南国のさまざまな植物や樹木に圧倒されながら、散策していました。
「熱いな、、、さすがに熱帯の国だ」
じりじり、南の太陽が強烈な光と熱で、体を焦がします。


小一時間もしないうちに、お腹が、、、
「ピーーーッ」
「ゴロゴロ」
となってきました。

「朝食べたものが、あたった?」

「やばい、出るーー」
「トイレはどこだー」

やっと見つけたトイレ、、。
「んーー???」

現地の人が利用する水浸しのトイレ。
「わーー これは汚い」

しかし、体は、待ってはくれない!!


汚い話ですみません。

とにかく、一気に出して、一段落しました。


「さて、トイレットペーパーは??」
「えーーー!!  、、、紙がない!!」
「汚い水桶、、汚い柄杓なら、あるけど、、、、紙が無い!」
「えー、どうしよう」


そういえば、この国では(というよりイスラム教では)、
左手で、トイレを済ませると読んでいた、聞いたことはある。
「左手は不浄の手」
「食事は、右手で食べる」


決死の覚悟で、私の左手で、おしりをぬぐって、
そして、手のひらで拭き取った。
「ヒェーーー」
「ヌルっとする」

とんでもない、別の世界に行ってしまったような、、、
後戻りのできない、経験をしてしまったような、
もう、普通の人ではいられないような、、、
「やってしまたーーー」
というような感覚に陥りました。

右手で柄杓をもって、左手にかけて、洗って、、、洗って、、、洗った!
そして、ハンカチで拭き取った。
「このハンカチどうしよう、、、」
でも、仕方ないから持ち帰りました。


後日、会社で、、ローカルの部下との雑談で、、

私、
「この前、○○植物園で、トイレ行ったら紙が無くて、左手で処理したよ」
「大変だったーー」
「なんで、トイレに紙が無いの?」


「それはそうだよ。」
「イスラム教では、左手で用をたすからね」
「おしりから見て、
 ・手できれいにされるのと、
 ・紙で拭き取っただけでは、
 手できれいになったほうが、清潔で、きれいだからだよ」
「お風呂だったら、手で洗うだろう、、!」

私、暫く考えて、、
「なるほど、
 ・自分の手の立場から見るのか。
 ・自分のおしりの立場から見るのか。
 この立場が、根本的に違っていたのか!!」と、、、。
相対性理論だ、、と、勝手に解釈しました。
そして、妙に納得しました。

地球の1/4の人たちは、イスラム教徒、、。
ということは、1/4の人たりは、左手で用をたすってこと。
「ウ―――ン」
「なるほど」


このような、生活に根差した、小さな違いの積み重ねが、
大きな意味では、文化の違いに繋がっていると思った瞬間でした。

イスラム教を表面から見ただけでは、一面的な偏った見え方になると
改めて思い直すきっかけとなりました。


万事、かように、相対的な見方、考え方があるものだと思います。
決めつけの絶対的な立場を安易に取ってはいけないな、、と感じています。


今回も、最後までお読みいただきありがとうございます。
しょうもない話ですみませんでした。






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