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ノートパソコン|A&A Japan 6
Radio Shack店舗社員は土日なく働いているので、本社バイヤー含めて、自主的にManager以上は、土曜日は半日勤務になっていて米国企業としては、どこか社風が違っていました。
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駐在初年度の頃は、テキサス州にはまだBlue Lawsという法律が生きていて、教会に行く日曜日は小売販売などのビジネスは禁じられていて、店舗は閉まっていました。気晴らしにショッピングモールに行っても午前中は皆閉まっていて、教会の散会になるお昼頃からレストランや一部お店が開店する程度だったと記憶しています。
ジョークのようで本当の話だったのが、金物屋では金槌は売っていいけど釘はだめ。なぜなら釘があると仕事するから・・・みたいなまだまだ宗教色が普段の生活に根強く残っていました。
本社着任とすれ違いにRadio Shack副社長で、26シリーズのコンピュータと周辺機器のバイヤーだったジョン・シャーリーは、ビル・ゲイツにヘッドハントされてマイクロソフトの社長になってシアトルに移った後でした。
駐在中は、モデム初搭載で世界的大ヒットになった京セラ、ASCII、マイクロソフト3社で開発のModel100の後継機種である、Model102、200を送り出しました。日本ではこの頃ワープロが全盛期になっていた頃。周辺機器では、パソコン市場でも一番早かったと思いますが、レーザープリンタをリコーのOEMで送り出すなど色々な新製品開発に携わっていました。
IBM互換機が世の中のスタンダードになる前の70年代後半から80年代前半は、TRS-80と呼ばれる自社版でパソコン草分けの会社でした。
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IBM互換機ノートブックOEMを模索していた時の頃です。フォートワース本社までデモ製品持って売り込みに来られたのが、後に東芝の社長にまでなられた西田さん。その西田さんがまだ課長でした。
彼らのデモ機は、日本文化に沿ってファンクションキーのF1−12 keyが右側に縦列で並んでいました。今では常識ですが、それを最上段に左から横一列の配列に並べ替えを提案。液晶パネルが180°倒れないのを、外部モニター接続した時に邪魔になるので液晶画面がフラットに倒れるヒンジ・デザイン変更など今でいうUXにも関わるなど単純な買付けでなく、マーチャンダイジングをOJTで学ぶ最高の職場でした。
技術チームも惚れ込んだ東芝ノートパソコンが、価格折り合いがつかず商談決裂。その後東芝は、「ダイナブック」として世の送り出しご存知のとおり世界中で一世を風靡する大ヒット商品になりました。ジョンが居たら、商談成立していて東芝からダイナブックは出ておらず、IBM互換機のノートパソコンの市場も様変わりしていた可能性があったと思います。
新製品を世に問う時に、一歩手前で社運や市場まで左右するターニングポイントの舞台裏に幾度となく関わるパソコン市場幕開けと共に駆け抜けた20代でした。
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