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テングノムギメシ


     再会


ムラサキ。

 昔から、ムラサキには目がない。ラベンダー、グレープ、アメジスト。

「久しぶり。何年ぶりだろう。」

 その店のカクテルの色もムラサキだった。

「高校を卒業してからだから、そうね。四年くらいかしら。」

 グラスの底に沈んだサクランボを取り出して、私はそう言った。

「それにしても変らないわね。」

「そう?」

「ええ、むしろ若返ったみたい。」

 照れくさそうに、彼は目にかかった前髪を指でかきわけた。その爪に塗られたマニュキュアもまた、ムラサキだった。

「きみは?」

「私はだめ、全然。会社に馴染めなくて。」

 むかし、ムラサキという色は、位の高い人のみが身に着けることを許されていたという。

「でも、知らなかったわ。バンドやってるなんて。」

「大学からなんだ。」

 カウンター越しに見える、バーテンのネクタイ。それもムラサキ。

「どうだった、今日のライブは?」

「よかった。とても。」

「どの曲が?」

 アイスピックが、氷を砕きはじめる。

「そうね。あの、テングのなんとかっていう。」

「テングノムギメシ、タベレナイ」

「そう、それ。正直、意味はよくわからなかったけど。」

 氷の塊が、トングからグラスへすとんと落とされ、乾いた音をたてた。

「・・・・・
 テングノムギメシ、タベレナイ
 ぼくは、月の岩にはなれない。

 テングノムギメシ、タベレナイ
 きみとのキスはおあずけさ。」

 寿史は小声で、サビの部分をそう口ずさんだ。それから、グラスに残ったウィスキーを飲み干して、空の底をじっと見つめた。

「じつはあの歌、ぼくの実体験なんだ。」

 シェイカーが振られ、小気味よい音を響かせる。

「小学校のときに、好きだった子がいてさ。」

「あの歌詞にあった、紫のチョーカーの子?」

「そう。いつも紫色のチョーカーを首に巻いていた。色白で、髪の長い、とても綺麗な子だった。どこか高貴な雰囲気をまとっていてね。まるで本物のお姫様みたいな。」

 カクテルグラスの縁にシェイカーがかちりと触れ、ゆっくりと傾いていった。

「僕から告白したんだ。それから僕たちは、いい感じになった。小学校五年生のときだった。帰り道はいつも一緒だった。いっちょ前に、手をつないだりなんかもして。」

「うん。それで。」

「で、ある日の放課後、彼女は僕を野原みたいなところに連れてゆくと、唐突にこう言ったんだ。
『ここにある土を食べたら、キスしてあげる』って。」

「え?」

「そう。僕もきみと同じように思わず、え?って言って。そうしたら彼女はこう言った。
『このテングノムギメシが食べれたら、わたし、あなたにキスするわ。』って。」

「なに言ってるの、その子。」

「うん、そう。じっさい僕も、そう思った。土を食べるなんて、どうかしてるんじゃないかって。どんな試練なんだって。でも、その子の目は真剣だった。今でもよく覚えている。切れ長の目の中の、夕日を映した淡いブラウンの瞳。
ためらっている僕を見て、さらに彼女はこう言った。
『あなた、ツキノイワになりたくないの?』って。」

「ツキノイワ?」

「そう。」

「・・・それで?」

「それきりさ。結局僕は、テングノムギメシを食べられなった。彼女にとっては不合格だったのさ。それからしばらくして、彼女は転校してしまった。」

 カウンターの上を、カクテルグラスが音もなく滑ってゆく。華奢な足元を、指の先で支えられ。

「その、テングノムギメシって、なんなの?」

「さあ、詳しくはわからない。どうやら珍しい種類の土のようなんだ。細菌だかなんかが豊富に含まれてる。たしか、国の天然記念物に指定されていて。」

「それにしても、おかしな名前。」

 うつむいたバーテンがボールペンを手に、伝票へ目を落としている。

「そう。でも、歌詞にするにはもってこいだった。じっさい、きみも気に入ったみたいだし。気になるのなら、見に行ってみるといいよ。今度帰ったときにでも。なんにもないとこだけど。」

そう言って笑った彼の顔は、まるで少年のようだった。




     帰省


 テングノムギメシ(天狗の麦飯)

・テングノムギメシ(天狗の麦飯)とは日本の中部地方の火山地帯に産生する微生物の塊である。産生地のひとつ、長野県小諸市のものは天然記念物に指定されているため採取が禁止されているほか、他の産生地も国立公園内にあり採集をする為には国の許可が必要である。

・大きさは0.1mmから1cmぐらいの小さな粒状で、弾力があり、乾燥すると味噌の塊のように見える。「食べられる土」として紹介される事もあり、古くは長者味噌、謙信味噌や飯砂(いいずな)とも呼ばれた。

・明治の半ばより多くの生物学者の目を引き、(中略)多くの研究者がこれに係わっている。その結果によると、藍藻類、細菌類、古細菌類、糸状菌などがそこから見出されており、その正体は菌類・藻類の複合体といわれている。


 ネットで検索すると、ウィキペディアにはそう書いてあった。ただ読めば読むほどに、よくわからなくなっていった。
どうやら、貴重な生き物ではあるらしい。しかし写真でみると、それはどう見ても土にしか見えない。しかも、むかしの人はそれを食べていたというのだ。
さらに、その正体が未だに解明されていないという事実が、ますます私の頭を混乱させた。民間ロケットが宇宙へと行くこの時代に、果たしてそんなことがあり得るのだろうか。


 ひとつ溜息をつき、スマートフォンのカバーをたたむと、私は窓の外へと目を向けた。沿道には寂しげな風景が続いている。バスは車体を揺らし、碓氷峠を登るために、エンジンを唸らせていた。膝の上に折り畳んだ黒のダウンジャケットが、四月の陽光を受けて熱を持ち、心地よい眠気へと誘った。そのまま背もたれへと身を預けると、しずかに瞼を閉じ、そしてこう思った。もしかして私は、彼のことがまだ好きなのかもしれない、と。

 あの夜から、たびたび寿史の顔がちらついた。会社の洗面台で。一日が終わりベッドへもぐり、眠りに落ちる、その前に。
 長い前髪に縁どられた、まだあどけなさの残る、少年のような顔。それは、爪の先に塗られたムラサキのマニュキュアとは、どこかちぐはぐな印象だった。まるで母親の鏡台の前で、口紅を塗る少女のような。そんなギャップがあった。
 しかしかえってそのギャップが、より私を惹きつけたのかもしれない。無意識のうちに、今の自分と比較して。
 新入社員の私にとって、日々は重たくのしかかる。いつまでも慣れない仕事。適当な愛想笑い。同期との競争。愚痴ばかりの飲み会。ひと息つくために逃げ込んだ、会社の洗面台の鏡には、疲れの影をひきづる女の顔が映っていた。するとあの顔が思い出される。少年のような。それは私を勇気づけた。まるで穢れのない、未来そのもののように。

 彼は変わった。私の知る彼は、もっと穏やかで、平凡だった。決してバンドなんかを組むようなタイプではなかった。何がそうさせたのかはわからない。しかしともかく、明らかにその顔は若返っていた。私とは対照的に。


「こんなくだらない話しにつきあってくれてありがとう。退屈だったでしょう?」

 初めて話しをしたのは、高校一年生のときの、林間学校の行きのバスの中だった。それぞれ仲の良い友達とペアになっていたが、奇数の場合は当然あまりが出る。私と彼は、そのはみ出した者同士だった。私たちは、二時間という長い旅路を、隣合わせで過ごした。しかし、思いのほか、気まずくはなかった。それは口下手な私を気遣って、彼が一生懸命に話してくれたからだ。今となってはその中身は覚えていない。ただ、バスが宿舎に到着すると、席を立つ前に、彼はそう言ったのだ。その一言は、私をはっとさせた。それからだった。彼のことが気になりはじめたのは。

 彼はモテるタイプではなかった。そして私も積極的なタイプではなかった。いつも教室の隅で大人しくしているようなそんな二人に、互いの接点はなかった。だから、そのほのかな恋心を告げる機会は、とうとう訪れなかった。やがて高校を卒業すると、私たちはそれぞれの道へと進んでいった。


 気が付くと、いつの間にはバスは、佐久平の駅前に到着していた。いつもなら、ここでバスを降り、迎えに来ている母親の車へと乗り込む。しかし、今日はそうではない。窓の外には、雄大な浅間山が見える。火口から細い煙をたなびかせ。キャリーバックを引いた人々が、バスの傍らを歩いてゆく。やがて車内アナウンスが鳴って、空気が抜けるような音と、昇降口が閉まる音がした。それからバスは、滑るように動き出し、車列に紛れ込むと、終点の小諸駅へと向かった。


 これは好きというよりも、推しなのかもしれない。私はそう思った。蝶へと生まれ変わった彼が、果たしてどこまで飛んでゆけるのか、それを見届けたいのかもしれない。でももしも、そのための一助を、私が担えるのなら。そう考えると、なんだか幸せな気分になれた。あわよくば、単調な日々にあえぐ、私の夢まで乗せてもらって。そのためには、寿史のことをもっとよく知らなくては。その生まれ故郷。育った町並み。それから、テングノムギメシ。そのために私は、実家へ帰るのにわざわざ遠回りしてまで、こうして小諸駅へと向かっているのだ。今度会ったら、こう言おう。「見に行ってきたわよ、テングノムギメシ」と。きっと、驚くに違いない。


     小諸

 
 もうその頃には、車中に残された乗客は、私ともう一人の中年の男性だけとなっていた。その男性は、バスが小諸駅へ到着すると、網棚から大きな紙袋を引き出し、手すりを握りながらステップを降りると、ロータリーの隅に停車していた軽自動車へと乗り込んでいった。ブレーキランプが点灯すると、やがてその車は走り去った。

 広いロータリーには、私と、一台のタクシーだけが取り残された。ぐるりと囲むビルの屋上には、巨大な広告看板が並び、それはところどころ白く塗られている。空気は澄み、動くものは見当たらない。とりあえず私は、その光景をスマートフォンで撮影した。風が、バスの中で蓄えた温もりを奪い去っていった。ダウンジャケットに袖を通して、グーグルマップを確かめると、私は商店街の坂道を登っていった。
 
 通りは閑散としていた。シャッターを降ろしている店が多かった。なかには新しい店もあり、磨かれたガラス窓へとレンズを向けたが、その店内に人気はなかった。足元の真新しい敷石ブロックが、なぜかわびしさを助長した。ときおりすれ違う高校生たちは皆、うつむいたままに通り過ぎていった。交差点で信号が変わり、無人の横断歩道には歩行者用信号機の、あの「ぴよ、ぴよ」という音が鳴り響いていた。その音だけが遠くまで、うつろにこだました。

 陽はすでに傾き始めていた。国道に沿って、私はとぼとぼと歩いていった。歩いているのは、私だけだった。通り過ぎる車の運転席からは、まるで珍しいものでも見るような視線が投げかけられた。タイ語の看板が目についた。イヤホンからは寿史の歌声がきこえている。ライブのあとで、こっそり物販のCDを買っていたのだ。「テングノムギメシ、タベレナイ」。もう、何度聴いたのかわからない。そらで歌えるほどに。

 ずいぶんと遠くまで来ていた。朽ち果てたラブホテルを過ぎ、用水路に沿った田園地帯を通り抜け、いつのまにか住宅地へと入り込んでいた。そこは団地だった。等間隔に区画された敷地には、新築の家が建っていた。庭には砂利が敷かれ、バーベキューセットだけが、ぽつんと置かれている。不安になった私は、地図を確かめた。しかし、ナビの矢印はたしかにこの先をさしている。もうすぐ地平線に、陽が沈もうとしている。私は再び、歩き始めた。

 やがて左手に小学校が見えると、その奥の校庭から、子供たちのはしゃぎ声が聞こえてきた。もしかしてこれが、彼の母校なのかもしれない。そう思うと、幼いときのその姿を想像せずにはいられなかった。それから写真を撮るためにスマートフォンをかざしたが、下駄箱からじっとこちらを見つめる職員の視線に気づき、やめた。茜色に染まる校門のすぐそばでは、桜の花が散っていた。アスファルトを覆う花弁が途切れるあたりから、道はぬかるみとなり、その先で極端に細くなると、両側には破れた緑色のフェンスがどこまでも続いた。それは竹林へと吸い込まれ、寂しげな街灯に明かりがともると、いつしか道の先に、こんもりと小高い丘が見えてきた。私は手元を確認した。ようやくたどり着いた。そこが、テングノムギメシの産生地だった。

 見渡す限り、原野だった。丘の上にぽつんと、細長い影だけが見える。それ以外は、寿史の言った通り、本当に何もなかった。ひと息つくと、私はゆっくりと丘の上へと向かった。足元の地面は、まるで柔らかい布団のように、ふわふわとしていた。不思議な感覚だった。雲の上でも歩いているような。空には、一日の最後の光が、まだしがみついていた。やっと頂上の、オベリスクのような石碑へとたどり着くと、苔むしたその面を、注意深く見つめた。なにやら、うっすらと文字が刻まれている。

「天然記念物天狗ノ麦飯産地」

そのとき、すぐそばの宵闇の中で、小さなふたつの影が揺れた。

「・・・サヤちゃん、そんなの無理だよ。」



      子供


 それは小さな男の子の声だった。それに続いて、女の子の声がきこえた。

「どうして?」

 その声色は、無垢な幼子のようにピュアだった。私はその声のほうへと視線を向けた。

「だって、いくらなんでも、」

 二人は、私から十メートルほどしか離れていなかった。しかしちょうど、石碑が目隠しの役となり、彼らは私には気がついていない様子だった。

「土を食えだなんて。」

 男の子は、やっとそう言葉をつむいだ。そして、指の先をもじもじと遊ばせながら、哀願するように相手の顔をのぞき見た。私は目を見開いた。

「土じゃない、テングノムギメシよ。それができたらわたし、あなたにキスするわ。」

 高く、透き通るようなその声は、純粋さゆえに、有無を言わさぬ説得力があった。風が吹き、女の子の短いスカートのプリーツが、まるで音階をなぞるピアノの鍵盤のように、ひらひらとはためいた。オレンジ色の背景にくっきりと浮いたその姿は、異様な凛々しさをたたえていた。顔には濃い紫の陰が落ちて、その表情までは読み取れない。男の子の指先が、ぴたりと止まる。

「ほんとう?」

 すると、こくりと小さな頭がうなずき、その長い髪が揺れた。私は息を呑んだ。それからためらいがちに、男の子は膝をついた。そしてしばらくの間、じっと地面を見つめていた。遠くのほうで、小海線の電車が、がたごとと通り過ぎてゆく音がした。やがて背中を丸めた少年の、その小さな手が、しずかに地面をかいた。まるで巡礼者の祈りのように、それは長い間続いたが、ついにはひとつかみの土を握ると、おそるおそる、顔へと近づけていった。私の心臓は早鐘を打った。なんだか急に、見てはいけないものを見ているような気がしてきた。

「、、、だめだ。やっぱりムリだよ、サヤちゃん。」

 仰ぎ見たその横顔には、残照が映えていた。それとは対照的に、見下ろす少女の顔は陰に覆われたまま、微動だにしていない。やがてその口が開くと、毅然としてこう言った。

「あなた、ツキノイハカサになりたくないの?」

 私の頭は、ますます混乱してきた。もう、汗が止まらなかった。足は棒のように硬直し、震える手は無意識のうちに、ポケットの中のスマートフォンを探し求めていた。まるでそれだけが、現実へと引き戻してくれる、たった一つの手段であるかのように。それから頭の中で、あの歌がきこえはじめた。

♪オレンジ色の空の下
 ゴルゴダの丘には
 十字架が立っている。

 遠くで電車が泣いている
 赤いランドセルからはリコーダー
 紫色のチョーカー首に巻き

 美しい髪をなびかせて
 クレオパトラの命令にゃ
 カエサルだって拒めない


 テングノムギメシ、タベレナイ
 ぼくは、月の岩にはなれない

 テングノムギメシ、タベレナイ
 きみとのキスは、おあずけさ。


 そのときうかつにも、ポケットからスマートフォンを落としてしまった。その音で、二人が咄嗟にこちらをふり向いた。すると女の子のほうは、無言で荷物を手に取り、すたすたとこちらへ近づき、長い髪をなびかせながら、そのまま私の横を通り過ぎていった。

「あの、」

 私はやっとそう言えた。

「なんですか?」

 白い肌に浮かぶ、ふたつの切れ長の目が、闇の中できらりと光った。ほっそりと長い首には、紫色のチョーカー。その手にぶら下がる赤いランドセルからは、リコーダーが顔を覗かせている。歌詞のまんまだ。

「、、、い、いいえ。なんでもないの。」

 女の子は、足早に立ち去っていった。

 夢でも見ているのではないか。そう思わずにはいられなかった。丘を降りてゆく、その後ろ姿を、しばらく呆然と眺めていた。やがて冷たい風が這い上ってきて、私を丘の上へとふり向かせた。うずくまった男の子の影が見える。先ほどと同じ場所で。肩をふるわせ、うっすらとうめき声を漏らしていた。私はそっと近づくと、その肩を叩いた。

「うぅ、うぅ、、、。こりぇで、ひひのかよ、、、。」

 すると、ふり向いたその顔を見て、私はぞっとした。鼻水と、その歪んだ口元からは、じゃりじゃりとした薄茶色の砂がこぼれ出て、それは赤い頬まで続き、その脇を涙が、いくつもいくつも流れ落ちていった。

「やめなさいっ!」

 咄嗟にその手を叩いて、握りしめていた砂をはたき落とした。

「、、、だって、、、だって、、、サヤちゃんが、、、、。うぅ、、、。」

 それからしばらくの間、辺りが闇に飲まれるまで、その男の子はただただ泣いていた。


      母親

 それから数日間は、まるで熱に浮かされたように過ごしていた。地に足がつかず、まだふわふわとした、あのテングノムギメシの上を歩いているような感じがしていた。そしてことあるごとに、あの丘の上の光景が、フラッシュバックのように蘇った。


 帰省して三日目の朝、目を覚ましたのは、九時頃だった。

 キッチンへと降りてゆき、私はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。寝起きでも、不思議と頭は冴えていた。
 いつものように食器棚へと向かい、カップを取り出した。ガラス戸に映る自分の姿を見て、髪を撫でつけると、コーヒーメーカーの前に陣取った。そしてぽたぽたと、ポットに落ちてゆく、コーヒーの滴をただ見つめながら、こう考えていた。あの女の子は、いったい何者だったんだろう、と。

 コーヒーの香ばしい香りが、徐々に現実を認識させていった。窓からは、すでに活発な光が差し込んでいる。テーブルの上には、父親が読んだあとに、綺麗に折り畳んだ新聞が置かれていた。その脇には老眼鏡。そのときコーヒーメーカーが唸り、あえぐように蒸気を吐き出した。私はポットの取っ手を持ち、カップへとコーヒーを注ぐと、椅子へ腰かけた。そして、肘をついてカップを両手で包みこむと、少し冷めるまで待ってから、口をつけた。そのときになってようやく、自分が目にしたことについて、冷静に考えてみるつもりになった。

 寿史の話しは、小学生のときの思い出だった。しかし、それと全く同じ出来事が、私の目の前でも起こった。それも、現実のこととして。つまりそれは、私が白昼夢を見たわけでも、あの女の子が過去からやってきたわけでもなく、あの場でたしかに起きた、事実なのだ。そう思うとあの子はどうして、寿史の好きだった女の子と、同じ恰好だったのか。そして、同じ言動を取ったのか。

 しばらくの間、私は新聞紙の面へと、うつろに視線を落としていた。そのときふと、ある考えが頭をよぎった。

 もしかして、娘だったのかも。

 ゆっくりとカップへ口をつけると、私はコーヒーを喉の奥へと流し込んだ。

 そうよ、私が見たのは、寿史の好きだった子の娘だったんだ。きっとそう。だからあんなにも、見た目がそっくりだったんだ。それに年齢的にも、もう子供がいたっておかしくはない。そう考えると、なんとなく辻褄が合う。

 それからはコーヒーを飲み込むたびに、小さくうなずいていた。

 彼女はきっと、何か理由があったに違いない。あの場所で、母親と同じ恰好で、同じことをしなければならない。そういえば何か言っていた。ツキノなんとかって。それが、代々受け継がれている儀式なのか、はたまた使命なのかはわからない。いずれにせよ、母親から譲り受けた紫のチョーカーを首に巻いて、そうせねばならないわけが、彼女にはあったはず。そうよ。きっと、そうに違いない。

 それを確証へと変えるためには、何か手がかりが必要だった。私は、テーブルの上のスマートフォンを覗きこみ、寿史にLINEを送った。それは報告のためではなく、質問のためだった。本当のことは言えなかった。頭のおかしい子だと、思われたくなかったから。朝の早い時間にもかかわらず、思いのほか、すぐに返事が返ってきた。

「名前? たしか、サヤちゃん。月乃小夜ちゃん。でも、どうして?」

 それを見ると、私はスマートフォンを静かに置き、テーブルの上を滑らせ、ほんの少し遠ざけた。そして、カップの縁を口で咥えたまま、じっと考えこんだ。だって、そんなはずはない。あの男の子だって、「サヤちゃん」と呼んでいた。そして、寿史の好きだった女の子もまた、「小夜ちゃん」。もしも娘だったら、おんなじ名前のはずはない。どこの世界に自分と同じ名前を、娘につける親がいるだろうか。これはいったい、どういうことなのか。カップを傾けてコーヒーを口に含むと、急に味がしなくなった。

「あんた、顔色悪いけど、大丈夫?」

 そのとき、キッチンに母親がやってきてそう言った。きっと私は、放心したような顔つきをしていたのだろう。

「うん、大丈夫。ねえ、お母さん。」

「ん?」

 それから母は、食器棚から自分のカップを手に取ると、コーヒーメーカーの前へと向かった。

「月乃っていう、苗字知ってる?」

 そして私に背を向けたまま、カップへとコーヒーを注いだ。

「ツキノ? 月乃? どっかできいたことがあるわね。」

 やがてふり向きざまに、彼女はこう言った。

「ああ、たしか小学校のときに一人いたわ。月乃小夜ちゃんって子が。珍しい苗字だったから、よく覚えてる。」


      東京 


 予定を一日早め、私は東京へと戻った。


「ごめんなさい。急に呼び出したりなんかして。」

「べつに、かわまないよ。」

 そう言うと、寿史はウィスキーを注文した。

「どうしても、顔が見たくなっちゃって。」

 その横顔は、卵のようにつるりとしている。

「どうだったの、実家は。」

 こちらをふり向くと、目にかかる前髪を、指先で軽く払った。

「うん、ゆっくりできたわ。」

 その爪には、光沢を放つムラサキのマニキュア。

「見れた? テングノムギメシ。」

「ううん。今回は時間がなくて。」

 それから私は、目の前のカクテルグラスを口元へ運んだ。中身はブルーハワイだった。

「それにしても、びっくりした。」

「なにが?」

「あの子の名前なんて、きいてくるんだもん。」

 バーテンが彼の目の前へ、しずかにグラスを置く。

「どうしても気になっちゃって。ねぇ、ところでさ、」

「うん?」

 グラスを持ち上げると、ウィスキーを口に含む。

「その子って、それからどうなったの?」

「なんで?」

「なんとなく。」

「さあ、わからないな。転校してからのことは。」

 怪訝な顔つきで、こちらを伺う。

「そっか。あとさ、」

「なに?」

 癖で、私は思わず唇の端を噛んだ。

「『ツキノイワになりたくないの』って、彼女、たしかにそう言ったの?」

「どうしたの、急に?」

「いいから、答えて。」

 カウンターの向こうで、バーテンは背中を向けている。

「、、、うん、たしか。でも、子供の頃のことだから、はっきりとは覚えてないけど。」

 コースターの上にグラスを置くと、彼はテーブルの上へと視線を落とす。

「本当は、ツキノイハカサじゃない?」

「ツキノイハカサ?」

「そう。」

 私はその目を、じっと覗き込む。

「そう言われると、そんな感じだったかもしれない。」

 ツキノイハカサ。それは、あのかぐや姫で有名な、「竹取物語」に登場する。

「それにしても、なんか、怖いね。今日。」

 物語の終盤、月への旅立ちを前にして、かぐや姫は帝への置き土産として、次のふたつを残してゆく。

「そうかしら?」

「うん。」

 ひとつは手紙。もうひとつは、不老不死の薬。

「だって、」

 しかし帝は、かぐや姫のいない世の中で永遠に生きることほどむなしいことはないと悟り、それを天に一番近いと言われる、駿河の国の山(富士山)へ捨てに行くように、部下へと命じる。

「あなた、本当は食べたんでしょう?」

「何を?」

「テングノムギメシ。」

 その部下の名がまさしく、ツキノイハカサ(調石笠)であった。

「どうして?」

「だって、その顔。」

 つまりツキノイハカサとは、帝から不死の薬を、預かった人物なのだ。


「この前会ったときよりも、明らかに、若返ってる。」


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