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かんじるうけとるときはなつ

人の機嫌や気分、体調や感覚は、毎日微妙に違う。
時折、わたしはいつも同じでアップダウンなどありません。なんていう人もいるけれど、もしもその人が自分の感覚に寄り添おうとしたならば、数ミリくらいは違いを発見することが可能であろう。

寝起きのタイミング、朝の気温やお天気、その日のスケジュール、からだのバイオリズム…。いろんな要素が、この「尊い人生のいちにち」をつくっていく。

感覚が異様に敏感なとき、その一日はタフだ。
そしてさらにタフなのは、至福感や快感に対するよりも、侵害刺激や不快感に対して鋭敏になってしまっている場合の一日だ。
耳に刺さる音がいつもより大きくて鼓膜が痛い。誰かがドアを閉める音、不機嫌な声、吹く風までもが不安を呼んできて、しまいには人の視線や信号が赤に変わるタイミングまでもが、わたしを攻撃しているかのように錯覚し、あらぬ妄想までしてしまうことすら脳は可能にしていく。
行き過ぎのサインを見逃すと、心はどんどん闇に埋もれてとんでもない場所まで落ちていってしまう。一日寝て回復できれば良いけれど、これが何日も続いたら、せっかくの生きている日々までをも、本格的に祝福できなくなってしまうだろう。


わたしの感受性は朝から何だか鋭敏だった。

よく満月だから、新月だから、今日はなんとかかんとかの日だから、というけれど、今日はなんの日だろう。強いて言えば1月が終わる日だ。そんな節目もあるのか?

朝から子どもたちも異様にアグレッシブなテンションで(と、もしかしてわたしがそう感じているだけで)肌から10センチくらい浮いた所までわたしの気はピリピリしている。そのあとも、とある人が不機嫌であることを感じてすこしビクビクしている自分に気付いたり、とある人の声が脳内でマッシュルームみたいに大きくなったり(←?)。

自分の感覚が鋭敏すぎるのかな?と気づいたときこそ、やさしく自分を労わりましょう、なんてことは、言いがちなアドバイスだと思うのだけれど、結構こういうときって余計に自分を痛めつけることをしてしまったりもする。からだをもっと動かせば忘れられる!とか。
このくらい大丈夫って言えるときは動いて、ダメかもって感じるときは休むのが良いのかもしれない。


だがふと思った。逆の視点から見たら、自分も周りに毎日影響を与えているわけで。その観点から見ると、影響を受けている被害者だと感じたときというのは、すごく良い学びの機会なのだ。なぜって、きっと、感受性がとっても敏感になっている人にはこういう態度がきついかもな、とか、わかったり察したりできるようになるから。
もちろん人は皆違うから、自分の受け取っている感覚と同じものを相手が持っているはずだ、と決めつけてしまうことは危険なのだけども、敏感な部分を変えなきゃ、鈍感にならなきゃ、と自分にムチを打つよりは、まだ、自分にやさしい手段になるとは思う。

で、結論をいうと、どんな状態であれ、集中するべきことは自分が受け取りたいエナジーを自分が発するということなのかな、と考えていた
そのことに集中することが、調子の良いときも過敏なときも、大事なんじゃないかなと。日々がそうあると、だんだんと心も安定していくかもしれない。

自分が与えたい気を、自分が受け取りたい気を、自分がまとうこと。いつも、自分に立ち返ること。修行じゃ〜と思うことも多々あるものの、それが自分がこの人生を生きる上でコントロールできる数少ないことのひとつなのかもしれない。


自分にやさしくあるというのは、なかなか壮大な人生のテーマなのだろうなあ。

そんなことを思った1月最後の日。

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