あのひととひと夏
大きな噴水のある、素敵な街だった。
心地の良い石畳の道のわきに並ぶ古い建物にはたくさんの国の国旗が掲げられていて、その街が国際色豊かであることを知らせている。
路面電車は旧市街を抜けてゆっくりと新市街の大きな広場へ向かっていく。
歴史のある大学は門が開け放たれていて、誰でもくつろいだり散策したりできる広い公園が続く。鉄製のテーブルと、その周りに置かれたベンチに座って何人もの帽子を被った老人たちがチェスをしていて、その横ではベビーカーに座った小さな子がビスケットを頬張っていて、その横ではお母さんが友人とおしゃべりをしていて、地面では鳩たちがビスケットをもらおうと集まっている。
平和で静かな街は安全で、穏やかな人々のなかに物乞いは居ない。
時おり愉快になりすぎた人が大きな声を出しているが、それは愉快になるべくして吸ったものの影響だろう。その吸うものは、夜遅くに、倉庫や駐車場に立っている暗い肌の色をした若者たちから買うことができる。あからさまに警察の目を意識していることが伝わってくる彼らの緊迫感はどこか芝居じみていて、それでもその造られた緊迫感のもと、人々は彼らにお札を手渡し小さな袋を受け取る。
うまく交わせば半ば合法のものを、コソコソとやり取りするその行為自体にスリルがあるようで、でも確かに見つかってしまったら問題なので、誰も歯を見せるわけにはいかない。ギョロギョロとした目つきの男たちは、決して素性を明かさず、一言、二言発するだけで相手をすぐに立ち去らせることに集中している。
そんな街で彼女が出会った青年は、華奢で背の高い、タイ人だった。仕事をしていると言っていたが20代前半の若者は、ひどく日本に憧れているようだった。話すたびに、日本のパスポートがあるのはいい、とか、日本に行きたい、とか言う。日本には何でもある、という言葉を聞いても、へえ、そういうものか、という程度にしか興味がなかった彼女は、大して彼の夢を実現させる力になるような助言をすることもなく、ぼんやりと毎日を生きていた。
爽やかな夏の夜ほど開放的で心地よいものはない。
冷えたビールを片手に広場で遊んではしゃいでいたら、不意に彼の大きな両手が彼女の頬を包み、彼は彼女にキスをした。彼女は彼のことをそう言う目で見ていたわけじゃなかったけれど、そういうシチュエーションになったらそういうふうになってしまうのが20代の夏の夜だったのだろう。
日曜日は新市街の大きな広場で市場が開かれる。野菜やお肉、パンにチーズ、雑貨や服も並んでいるお店の数々。何かを食べながら歩いて見回っても、お店に並んでいるぶどうなんかを味見したりしても、誰も文句など言わない。
彼女はそんな市場の店々を巡るのが好きだった。ある晴れた日曜日、とびきり素敵なスカーフを見つけた。買おうかと考えている彼女の横で、青年は「そんなもの俺が何枚でも買ってやる」と面倒くさそうに言う。青年は彼女の部屋に行くことにしか興味がなかったので、どの店を見てもつまらなそうだった。彼女にとってそのスカーフは自分で買うことに意義があったので、彼女は青年の言葉を聞いてもちっとも嬉しくなかった。
彼女はスカーフを巻いて街をあてもなく歩くのが好きだった。部屋にはいつも好きなワインが置いてある。エスプレッソを飲みながら、ゆっくりと紙タバコを巻き、自分で色を塗ったガラスの灰皿を用意してのんびりと煙を燻らす。小さな洗面台と、勉強机とベッドだけがある狭い空間は、それでも彼女の城であった。
そこに、会うたびにその青年を招くことは、何かが違う。一緒にあてもなく歩ける男でないと、ダメだった。相手のあてが見えてしまった途端、彼女にはもうその青年といる意味がなくなっていたのかもしれない。
そんな、遠くのどこかで過ぎ去っていった彼女の短いひと夏。
短くとも永遠に、どこかで今に続いているだろう。
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