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個性は後からついてくる

昨日、古賀さんと石戸さんのnoteライブを観た。

「書いて発信すること」を極めていきたい私にとっては、どこを切り取っても貴重なお話ばかりだった。

その中でも1つだけ選ぶとしたら?

「個性とは結果である」このテーマを選びたい。


↑ここまでの文章、実は何ヶ月も前から温めていた、とある記事に付け加えているものだ。

『奈津子さんの人生』と題したその記事、というか記事に出来損なったその素材。ライターになりたい、奈津子さんのような女性になりたいという自分の夢を真っ直ぐに語るはずが、あるところを境に筆が全く進まなくなった。

当時はなぜ書けないのかわからなかったが、昨日のnoteライブを観た今の私にはわかる。

「個性」を出したいがゆえに「奇抜」になってしまい、結論何が言いたいのか、自分でも迷子になってしまったのだ。

「うわぁ…悪文だったな…」と自分でも実感している文章を読まれるのは恥ずかしい。だがあえてここに載せてみよう。そして、これからの創作の糧としよう。


緒方奈津子さん。私が生まれてはじめて知ったライターは、たぶん彼女だ。

奈津子さんは実在しない。もう10年以上前の連続テレビ小説「ちりとてちん」に登場する人物だ。

奈津子さんは、美人でスタイルが良くて売れっ子の「デキる女」。このドラマの主人公・和田喜代美の目の前に現れたその日から、喜代美の憧れの人物になった。

奈津子さんは、意志が強い。ライターとして記事に取り上げるテーマは時代の先端を行く華やかなものではなく、「若狭塗り箸」「落語」という伝統的でいぶし銀みたいなもの。万人受けしなくてもいい、クビになってもいいから、「これだ!」と思ったものを発信したい。自分が素晴らしいと感じたものをがっちり掴んで離さずに、自分の腕で料理して世に届けたい。そんな折れない芯がある。

奈津子さんは、好奇心に溢れている。奈津子さんを見ていると、「好きなこと」と「興味があること」はイコールではないのだと学ばされる。好きではないけれど、なんか面白そう。面白そうだと思えるから、いい記事が書けそう。知らない世界に出会った時、彼女が好奇心のままに動く姿は衝動的にも見えるが、興味を持てることというのは、けして好きなことばかりではないのだと教えてくれる。

奈津子さんは、人の魅力を引き出すのが上手い。やりたいことや得意なことが何もなかった喜代美に、「落語」だけは心の底から好きなのだという気持ちを気づかせたのは奈津子さんだったその人(取材相手)にとって「なくてはならないもの」を語る時の表情、声色、口調、テンポ、生き生きとした雰囲気を察知する。そして、その人が今よりも殻を破って、長所や強みをさらにオープンに表現していけるような言葉をかける。彼女はこの術を身につけたからこそ、フリーのライターとして生計を立てられているのだろう。


奈津子さんは、見た目で損するタイプだ。それも、不美人だからではなく美人だからという理由で。仕事に一生懸命になるあまり、家事が全くと言っていいほどできていない。家ではボサボサ頭でパソコンとにらめっこし続け、気づけば部屋は資料の山、おまけに料理もできない。

奈津子さんは、肉じゃが女を目の敵にしている。肉じゃが女とは、奈津子さん自身が生み出した造語。肉じゃがは男性の好きな食べ物、と一般的に言われていることから「自覚あり・なしに関わらず男ウケが良くてあざとい女性」という意味だ。奈津子さんはきっと人生の早い段階で、自分は肉じゃが女にはなれないことに気づいたのだろう。「取材して書いて伝えること」という武器を身につけたけれど、肉じゃが女へのあこがれを捨てきれずにいる…そんな感じがする。


お気づきかと思うが、全ての段落が「奈津子さん」から始まっている。

このようにした理由はというと、「やってみたかった。それだけ」である。

〈幼少期に影響を受けたドラマに、ライターの女性が出てきた。大人になった自分は、小さい頃から文章を書くことが好きだったと気づき、めぐりめぐってライターになりたいと思っている。そして今、この「奈津子さん」の生き方から学ぶことは大きい。〉

そういう意味を込め、自分の中での「奈津子さん」がいかに強い存在なのか、読んでいる方に伝わるようにしたかった。

じゃあどうすればそれが伝わるか?文の冒頭を全て、彼女の名前にしてみよう。個性的な形式にしたら面白いかもしれないし、なんとなくだけど格好良い感じがする。そんな浅はかな考えだった。


昨日のnoteライブでは、石戸さんが「よくわからない話がはじめに膨大に続くと、どこに連れて行かれるかわからなくて怖い」とおっしゃっていた。

私の失敗はまさにそれ。「奈津子さん」を説明するのは構わないが、その説明と「結論=自分が一番伝えたいこと」がつながっていなければ、どんなに綺麗な文章で「奈津子さん」を説明したとしても、意味がない。


そしてここからが自分でも笑ってしまう。「奈津子さん」を説明し終えて、さぁこれからが大切!というところで、わからなくなってしまった。

「あれ?私、奈津子さんについて書いて、結局何が言いたいんだっけ?」自分でも記事の到着地点を見失ってしまったのだ。

彼女について、個性的に・自分らしく説明することに気をとられるあまり、その後の展開を考えていなかった。

いや、厳密に言うと「考えることができなかった」のだ。


いつものnoteやブログなら、一番伝えたいことをシンプルな1文で考えて、構成もだいたいの大枠で考えて書き始めている(物によっては構成なしでつらつら書くこともあるが)。このnoteだって、ざっと構成を考えて挑んだはずだった。

でも、出てこなかった。「奈津子さん」の説明を終えての次の一言が。

考えたはずの構成が甘かったのか、そもそもこの「奈津子さんと私」というテーマに本音では興味がなかったのか。書けなかった理由はいくつかあるだろう。

ただ、1つだけ、強く自覚したことがある。それは、「文が文を後押ししてくれる」ということ。


書く、という行為は書き手の思考が整理され、思いもよらない自分を発見する行為でもある。「あ、私、こんな文章書けるんだ!」と驚く時がある。

文章の形式にとらわれず、キーボードを叩きながら思考をめぐらせることで、自然と生まれる言葉たち。それが弾みとなって、さらに次の1文が生まれる。これまで私は、noteやブログ・SNSでその楽しさや尊さを強く感じてきた。

表面上の格好良さに酔いしれた言葉たちでは、「奈津子さんの人生を踏まえて自分はどう生きたいか」というテーマへの後押しにならない。「奈津子さんは…」をひたすら書き、文体の個性を探求するという自分に課した足枷のせいで、思考が凝り固まってしまったのだと思う。


「自分で目指した個性はただの模倣」昨日のnoteライブでの言葉だ。確かにそうだ。だって「自分もこういう個性が欲しいなぁ」は、すでに活躍している誰かへの憧れから始まる感情だから。

自分だけの個性を探すことよりも、まずは文体なんか気にせず書いてみること。書き続けているうちに、自分だけの何かがついてくる。それが個性なのだ。


書くことーそれは読み手だけでなく書き手自身を勇気づけ、このよくわからない時代を生きていく励みになる。

「奈津子さんは…」の文章から「自分は…」の文章へのバトンミスによって、note更新を途中棄権してしまったこの経験。そんな失敗すら、言葉にして、文字にして、発信することできっと自分は成長する。私はそう信じることにした。


ちなみに今はもう、「ライターになりたい」が先行しているのではない。働いている福祉現場のことや、大好きな超特急のことを発信したい。そして、まだ見ぬ世界と出会って言葉にして届けたい。そう思っている。






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