見出し画像

アンくんとわたし

小学3年の時、
急に犬を飼う運びになった。
夏休み後だったと思う。
父の意向でビーグルを選んだ。
生後6ヶ月の子を迎えに行った。
まだまだ小さかった私の膝の中に
すっぽりと収まるくらい小さな子だった。
車の中で、私の膝の上で大人しく丸まっていた。
その温もりに、なんだかワクワクしていた。

その小さな命は、「アンフィニー」と名付けられた。

ビーグルは元々狩猟犬ということもあり、
かなりおてんばで
家具を噛んだり、おもらしをしたり、
家の中では怒られっぱなしだった。

夜になると、私が床に座って脚を伸ばしている間に伸びをしてすっぽり収まるのがお決まりになっていた。

それから数年。
私と姉の喘息が酷くなり、室内犬として飼い続けるのが難しくなり、
外で飼うことになった。

それでも姉も私も、アンくんが大好きで
よく散歩と称した「冒険」に出ていた。

近所にある笹藪の中に駆け込んでは
秘密基地を作ったり、駆け回ったり、
大笑いしながら過ごしたものだった。

私が中学生になると、アンくんの朝のお散歩は私の担当になった。
朝に弱い私は、正直めんどくさいなぁと思っていたし、かなりルートをショートカットしたりしていた。ごめんよ。
それでも楽しみなことがあった。
サングラスをかけた紫のジャージのおじさんに会うことだ。
最初はおじさん1人で散歩をしていたのだけど、いつからか、黒いポメちゃんを連れて散歩をする様になっていた。
おはようございます〜という挨拶をかわすだけだが、
一体どんな人なんだろうと思うとワクワクしていた。
家族にも、「紫のおじさん」として話をしていた。

ある日母と一緒に散歩中、近所の犬にアンくんが襲われて、
急いでその犬の口を手で外した私は、
その犬に噛まれた。
3針縫うことになり、未だに傷は残っている。
この傷を見るたびに、アンくんと一緒に痛みに耐えたなぁと思い出す。

大学生では一人暮らしをしていたので、
会える頻度が極端に減っていて、
でも会うと喜んでくれる、そんなアンくんが大好きだった。

そして社会人になり、私は故郷を離れた。
その頃からアンくんは病気がちで、心配で心配で、でもどうしようもなかった。

姉が実家に帰ってくれていたので、
定期的にアンくんの写真や動画を送ってくれて
今どういう状況なのか教えてくれていた。

その年の9月の半ば。
もうここ数日が山かもしれないと連絡が来た。
仕事をしつつ、帰りたいと強く思っていた。
そして帰宅して姉に電話をかけたら、
「ほんとタイミングがええね〜」と涙声で受け応えしてくれた。
ああ、もう、そういうことか。
テレビ電話に切り替えて状態を見せてもらった。
家の中で、毛布の中に横たわり、フーフー息をしている。
「名前呼んじゃって!」と母に言われ、
「アンくん、アンくーん」と呼びかけると
もう身動きを取ることさえ苦痛なはずなのに
脚をバタバタとさせて応えてくれた。
「私らが呼んでも反応せんかったのに!やっぱりぽんのこと覚えちょんやね!」
と母に言われ、もう私は涙腺が崩壊していた。
アンくん、もっともっと遊べたはずなのに
ごめん、ごめんね。
そんな言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。
「アンくん…がんばったね、もうええんよ、もうがんばらんでええんよ…」
電話越しに私は何度もそう伝えたが、
アンくんは脚をバタバタさせて、しっぽを振っていた。
アンくん、アンくん、アンくん…。

姉も母もまだお風呂にも入ってない状態だったので、
お風呂から上がったらまた連絡するとのことで
一旦電話を切った。
15分後くらいだろうか。
長い時間に感じた。
なんだか嫌な予感がしてこちらからまた電話をかけた。
すると、号泣している姉が出た。
「アンくんがっ、…たった今、亡くなったよぉ」
ああ…姉と母に看取られて、安らかに逝ったんだな。
そばにいられなくてごめんね。
電話を切って、その日は夜通し泣いた。
次の日は普通に仕事で、職場にもタオルを持ち込み
泣きながら仕事をした。
もう目はパンパンで真っ赤だった。
誰も何も触れてこなかったのが救いだった。

それからしばらくは、毎晩のようにアンくんは夢に出てきてくれた。
今でも、ごくたまにだけど会いにきてくれる。
実家の裏には、まだアンくんがいるような気がして直視できていない。
ここ2年は帰っていないので、次帰った時には
アンくんの思い出と一緒に、笑えたらいいなぁ。

今実家には、またおてんば息子がやってきている。
私はなかなか覚えてもらえず、帰省すると大声で吠えられる。
トホホ。

そして紫のおじさんもまだ朝の散歩を続けているらしい。
もうジャージは紫ではないらしいが。
あちらもポメ2代目と仲良く過ごしているようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?