はっては、

こ、こ、ろにぃ!と、電車の揺れる音しか聞こえなかった車内で、男がそこそこ大きな声を出した。だから何人かがそちらを振り返って、何かわかった顔でまた元に戻った。何もなかったみたいに、車内は、ガタンガタンと響いた。また彼が、言葉ではない声を出すと、今度は殆ど誰も見なかった。彼は喉を震わせ、また口を動かしていた。

また、こころにぃ、と言った。その言葉には、僕が知っている「こころ」の意味がのっているのだろうか。チーズを乗せたクラッカーみたいに。もしないなら、新たに広辞苑に載せなくてはならないな、と思う。男は車窓の外を眺めていた。暗闇だった。液体みたいにどろっと、空から降りたみたいな。その黒さに、僕はなんとなく津波を思い出した。それから都会の街の隅々までに、一人一人の肺に海水が満ちていくのを想像した。空っぽな容器の、肌色の、四肢の隅々に中身が詰まってゆく。満ちている、詰まっているということに、よく快感を覚える。

速度が落ち、やがて滑り込んだホームは蛍光灯の青白さが清潔で病的だった。暗闇の方がまだ体温を持っている明るさをしていると思う。そういう心にもないことを、言ってみる。あの、誰に伝えるでもない男の声みたいに。誰も取らないボールを手から離せば、転がって転がり、そのうち止まる。言葉は誰にも伝わらないと、ただの音で、それは虚しく散っていく。だからといって、声に出さない、ということはない。大気を震わせる。貧乏ゆすりをするみたいに、ガムを噛み、口で転がすみたいに。

ドアが開くと、パーテーションがあった。そこに乱雑にテープが貼ってあり、角の方は汚れがついて剥がれかけている。テープが芯から剥がれる時の、び、びび、びという音が、そのパーテーションに含まれて、現に、その剥がれかけた部分から、音が聞こえかけた。僕は口を「び」にして、小声で言ったが、誰も振り返らなかった。

あのテープを剥がせば、そこには痕がつく。一度でもそこに貼った形跡が。貼り、剥がしたあと。カット、ペースト。コンピュータ上のペーストは跡形もないんだった。僕は開いたドアを閉める、警笛が聞こえると、結局気になって、電車を降りた。目の前のパーテーションの中に、ヘルメットを被った作業着の男が、小さなドアから入っていった。僕はそれを見送ってから、テープをゆっくり剥がした。

「び、びびび、びび、い」テープは無我夢中に、というより出てしまった、というような声を出した。あ、あ、あ、とセクシーに喘ぐみたいに。あるいは、脚気の検査をしたときに脚が勝手に動くみたいに。

テープが剥がれ、べりべり、僕は時間をかけてそれを剥がす。しかし、なかなか終わらなかった。パーテーションの下まで剥がれると、そのテープが床まで続いているのに気づいた。そのまま剥がれた部分を短く持って、剥がしては短く持ち、地面に続くテープをび、びび、び、び、と鳴らしながら剥がした。あ、ああと僕も声を一緒に出していた。それはささやかな合唱みたいに、不協和だけれど心から出る声で、小学生の合唱みたいに。ただし美しい讃美歌でもあるように。テープが終わった時、僕は地下トンネルの天井を見ていた。大分遠くまで来たのだと思う。あたりは暗くて、歩くのも覚束なかった。ただ手に持っている絡まったテープをび、び、と剥がすだけだった。次第にテープの感覚が遠のき、体が暖かく締め付けられていった。張り付き、固定された身体から、力を抜いた。もうどこにも行かなくていいんだと、少し思った。

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