『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』2
ここでは、この本と対話して感じたことを書こうと思う(一つ前で優しさについて触れた)。
なぜ、私がこの本に惹かれるかというと、まずは、著者である幡野さんの優しさと、私のそれが符号するように感じられたからだ。
もう一つは、幡野さんの負けん気の強さというか、“暴れん坊”感というか、並々ならぬ反骨心、その気質に惚れたからだ。
素直に、カッコいい、と思った。
ただただ見過ごすのではなく、“いちいち”闘おうとする、その姿勢に共感する。
この“いちいち”闘おうとする気持ちを持つ人は、今ではそういないように思う。
こんな言い方をするべきではないかもしれないが、愛があるか/ないかの問題かもしれない。
あるいは、人間が好きか/嫌いかの問題か。
もしかすると、現代では、わりと煙たがられる類の人間かもしれない。
しかし、経験したことをベースに、自分の考えをどんな相手にもぶつけられるということは、大変な強さだと思う。
そして、それは同時に、優しさだろう。
闘うからといって、ただ熱いのではなく、なるべく何事も客観的に捉えようとする冷静さもあるように思う。
そこも、カッコいい。
相手のためにやっているという体を取る言動が、結局、エゴイスティックなものになっている、「優しい虐待」など、日々感じる違和感と闘っているからこそ、得られる考えだと思う。
ただ守るのではなく、攻めてナンボ。
「攻撃は最大の防御」、そういう感じがする。
そういう姿勢に大変共感するし、勇気を感じる。一人の「オヤジ」として「正しい」姿勢のように思う。
先日の独立研究者・森田真生さんと東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授・伊藤亜紗さんのトークイベントで森田さんが言っていたことと繋がる。
「不都合なものや、予想外のものにまみれていることが命の根本で、それらを排除してしまうと生き物じゃなくなっちゃう。
親が子どもに何を学ばせようかを考えることではなく、大人が最前線で学び続けなくちゃという切実さを持つことの方が大事」
『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』幡野広志/PHP研究所/2018.08.24.
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