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北海道が好きすぎて父と母に「転勤しろ」と言ったらひとりで行くことになった話

小学生5年生の頃、父と母に「私は北海道の中学校に通いたいので転勤してほしい」と言い放ち、両親を困惑させたことがある。

小学3年生の頃からふとした縁で毎年夏休みのうち1週間ほど北海道の民宿にお世話になっていた。
茅ヶ崎とは違う涼しさや空のひろがり、油断すればアブに全身をボッコボコにされる緊張感。今までとは全く違う環境に10歳になるかならないかの頃に見事にハマった。

更に雪が好きな私は冬の北海道でスノーモービルの楽しさにはまり、とにかく北海道に住んで北海道の季節を堪能したい、住むんや!ワシは!住む!と決意し、小学5年生の秋頃に教職に就いていた父と母に言い放った。
「中学から北海道の学校行きたいからふたりとも転勤してね」と。

当時、教師は希望すれば全国どこの学校でも転勤できる職業だと勘違いしていた私はこの望みは容易に叶うと信じて疑わなかった。
小学校6年の1年間で親に準備してもらい、中学からは北海道で暮らす人生のことばかり考えていた。

馬鹿である。

そんな馬も鹿も言わないような事を真剣に言い放った娘を前に、父と母は言葉を失っていた。そりゃぁそうだ、教職員免許があるとは言え勤続25年に迫っているキャリアを放って知らない土地でまた教職員採用試験を受けて再スタート、敷地内別居をしている父方祖父母のことなど1年やそこらで覚悟から準備から済ませられるわけがない。

だがこの複雑な問題を目の前の馬鹿にどう言えば理解してもらえるのか分からない両親は互いに顔を見合わせ、「あー…うーん…」と言葉を濁し、そして意を結した父が馬鹿(私)に優しく言葉を発した。

「それは難しいんだよ。父さんと母さんはな、家を買ってるから」
北海道で暮らすなら今の家を処分するのも大変だ、祖父母もいる、お前の北海道で暮らしたい気持ちは分かるけど無理がある。できるだけ言葉を選んでそう話した父に私はそうか、無理なのか。お父さんとお母さんは茅ヶ崎から引っ越せないのか。となんとなく理解した。

北海道の中学校に通うという私の野望は現実的な問題にあっさりと屈した。
しかし父は続ける。
「だからね、どうしても行きたいならお前ひとりで行ってみれば良いと思う。」

「山村留学制度というものがあって、親元を離れて地方の小学校に通うことができる。これで小学6年生の1年間行ってみるのはどうだ」

馬鹿の親は馬鹿ではなかった。
親がついていかないなら尻込みするだろうとの思惑故の提案に3秒後、「じゃあそれにする!」と何も考えずに満面の笑みで了承した娘が彼らの予想斜め上に馬鹿だっただけだった。

こうした経緯で私は小学6年の1年間を北海道で過ごした。

私が希望したのは十勝の上士幌にある東居辺小学校という全校16人の小さな学校だった。この内私含めて山村留学生は4人。複式学級で生徒に対し先生は6人。事務員、用務員も含めれば8人の大人がいた。
先生たちは生徒を下の名前で呼び捨てし、学校というよりは地域のひとつの共同体のような暮らしだった。
(下の名前だったのは兄弟が多かったからだと思う。3人姉妹が1組、兄弟、姉弟、姉妹が各1組いたし更に保育園にも弟妹がいたところもある)

印象的だったのは、お世話になっていた家のお母さんが作る卵焼きが大好きな先生がいたことだ。
運動会の時にお母さんが「◯◯先生!卵焼きあるよ!」と言うと先生が「やったー!ありがとうございます!」と歓声をあげてその卵焼きをパクッと口に含み、「やっぱり美味しい!ご馳走様です!」と言いながら職員席に戻って行った。
1学年4クラス、40人が教室でひしめきあう茅ヶ崎の小学校では決して見られなかった光景。
当時11歳の私は言葉にならない衝撃を受けたのだ。
生徒数が少ない学校ではこんなにも大人と子どもの距離、そして家庭と学校の距離感も近いものなのかと驚いた。

冬は各家庭のお父さんたちが順番に夜中もトラックを校庭に走らせてスケートリンクを作り、その際にできた除雪の山を子どもたちが競って穴を掘って鎌倉を作る。地域が主体的に関わる学校生活は濃密そのものだった。
(その時鎌倉の中でカップラーメン食べたのだが入口をごく狭く作った所為で鎌倉内にシーフード、醤油、カレーのラーメン臭が籠って耐えきれずに全員逃げ出して結局外で食べたのは良い思い出だ)

そんなこんなであっという間に1年が過ぎ、北海道の生活にすっかり満足した私は地元に戻って公立中に進学した。
そのまま北海道の中学校に進学するには新たにそういった受け入れをしている地域を探さなければならない事や、親と離れて全く知らない家庭にお世話になったことで子どもが親元から離れて安穏と暮らすには様々な犠牲や配慮がなされなければ成立しないと痛感したからだ。

東居辺小学校の山村留学受け入れは、私たちと入れ替わりで入った子を最後に終了した。
子どもには分からない様々な負担や苦労があったのだろうと今なら分かる。

その後、東居辺小学校は閉校となり今はレストランとしてまた活用されているらしい。
娘がもう少し大きくなった時に「ここがかーちゃんが過ごした学校だったんだよ」と伺えたらと思っている。


こうして初めて親元を離れて暮らした北海道での生活は、その後の人生の大きな礎となった。
大人しく茅ヶ崎の中学校に3年間通った私は高校進学に際しての両親との話し合いで
「やっぱ地方の少人数の学校行きたいわ!」
と言い放ちまたもや父親が言葉を失う事態となるのだが、それはまた別の機会に。

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