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【駅メモ二次創作SS】True Route2 しぐれルート

『弱虫は、幸福さえ恐れるんです。綿で怪我するんです。幸福に傷つけられることもあるんです』━━━━━━太宰治


 誰もが幸せになり、誰もが笑顔で、全てが手に入る。そんな物語は、確かに完璧だ。
 でもこれは、完璧を目指さない物語。
 何を手に入れ、何を捨てるのか。
 何を望み……何を、諦めるのか。
 完璧を目指さないからこそ、真実(トゥルー)の物語(ルート)。


「ミオの、ことなんだけどさ」
 我ながら、改まった出だしだな、と思った。
 リビングのソファに腰かけているしぐれに声をかけると、しぐれは読んでいた本から目を離し、こちらをゆっくりと見上げる。
 去年の末ごろに新しく我が家に迎えたでんこ、蓮台寺ミオ。
 でんこたちは様々な性格をしているらしく、他のマスターの下には、ひたすらに元気いっぱいな子だとか、お金にがめつい性格をしていたりだとか、大人の色気でマスターを惑わせようとするなど個性的なでんこたちがたくさん居ると聞く。我が家にきてくれたでんこはどちらも大人しくて助かっているが……
 ミオというでんこは、なんというか感情というものが薄く、返事も機械的で、余計なことはなにひとつしゃべらない、まぁ一言でいえば綾波レイなのだ。
 意思の疎通も基本的には首を縦に振るか横に振るか。
 最初きたときはまともに会話ができないので困ったほどだ。しぐれがあまりにも人間的過ぎて、ミオが来て初めて我が家にヒューマノイドがきたことを実感してしまったほどだ。
「ミオさんが、どうかされましたか?」
「うん、どうしたら今よりもっと感情豊かになれるのかと思ってね」
「もっと感情豊かに、ですか……」
 実のところ、迎えた当時よりも若干感情を持つようになっているという実感はあった。初めは全くもって機械的だった彼女も、一緒に暮らすうちに少しずつ人間的な仕草をするようになった気がする……あくまでも当時と比べて、だけど。
 しぐれは人差し指をあごに当てて、天を仰ぎ思索にふける。代わりに僕は、コーヒーを口に含んだ。ぬるくなってしまったそれは一際苦く、顔をしかめながら視線を窓に逃がす。一足早い春の訪れを告げる梅の花が咲いているのが見えた。
 外は晴天に恵まれ、ここしばらく感じなかった、温かな陽射し。がひとたび外に出れば、まだまだ冷たい風が吹きすさび、リビングで感じた春などは気のせいだと思い知らされるだろう。
 ……などと風情にあふれたことを考えていたのに、
「たまには2人きりでご旅行などはいかがですか?」
「んぶっ!」
 いきなりしぐれから、大胆な誘いを受けた。
 閑静な住宅街に建つごく普通の我が家に、家主である僕の盛大にむせる声が響き渡る。
「ああっ!マスター、大丈夫ですか?」
「ごほっ!ごほっ!い、い、いきなり何を言い出すんだ、しぐれ!」
 しぐれはティッシュ箱から数枚抜き取って僕に渡すと、別のティッシュで目の前に散ったコーヒーを手早く拭き取っていく。さすが、優秀だ。
 取り乱す僕に対し、しぐれは至っていつも通りの口調で続ける。
「何をって……ミオさんとお二人で旅に出られてみてはいかがでしょうと思いまして」
「あ、ミオと……ミオと、か。ああ、驚いた」
「もう、どうして私とだったら驚くのですか、マスター?」

「しぐれが、突然ふたりで愛の逃避行でもしようと誘ってきたのかと思ってね」
「ふぇっ……ち、違いますよ!」
 顔を真っ赤にしてぶんぶんと顔を振る。きめ細やかな髪が、リズム良く揺れる。
「ははっ、でも……確かに旅行することでお互いのことをよく知ることはできるよね」
「はいっ、私がマスターのもとへ来たときも、旅に出て思い出集めをすることで仲良くなりましたよね♪」
「確かに、そうだったね。あの頃が懐かしいな……もう2年は経つよね」
「もうすぐ、3年ですね」
 しぐれは懐かしむように、何もない天井を見上げる。
 そうか、もう3年にもなるのか。しぐれと2人の生活は、率直に言えば楽しかった。
 最初に来たときは本当にびっくりしたものだ。
 突然美少女が家に押しかけてきたときは、どうしても現実とは思えず、なにかの漫画かアニメか?と思うほどだった。
 見た目は人間の女性と全く同じだが、ヒトではなくヒューマノイドであり、背中にパンタグラフがついているようなこともなく(?)、体つきも会話も人間そのもの。
 そして彼女らの使命を知り、協力してあげたいと思い、通勤時間などで思い出集めに勤しんだ。
 慣れてくると旅にも出て、旅先の路線でも思い出集めをした。
 僕は基本的に電車ではなく車で旅行するタイプの人間だったけど、しぐれに協力するために電車で旅行することが多くなった。そして、車道ではなく鉄道で旅をすることで、自分自身が鉄道に関わる思い出をつくることで、しぐれが集めているその『思い出』を大事にしたい、そう思えるようになったのだ。
「思い出集めを始めた頃は、車で旅をすることが多かったですよね」
「そうだね、今は思い出集めといえば電車に乗ってばかりだけど。たまには……」
「行ってくるといい」
 かぶせるようにそう言いながら、ミオが現れた。
「いいの?」
「いいんですか?」
 ほぼ同時に聞き返す僕としぐれ。
「構わない。わたしがここにきてから、しぐれとの旅行はずっとしてないはず」
「まぁ、確かにそうだけど。……でも、一人で留守番してもらうの、なんか申し訳ないな」
「大丈夫、旅行から戻ったら、今度はわたしと逃避行して」
「で、ですから、逃避行ではありませんっ」
「あははっ」
 珍しいミオの冗談で、朗らかな場になるリビング。こうして、ミオが来てから実現していなかった、しぐれとの二人旅が決定した。

 王子しぐれは、完璧だった。
 そう、まるで手の届かない高嶺の花のように。
 綺麗な黒髪、整った顔とプロポーション。
 朗らかな笑顔。
 丁寧な言葉遣いと、献身的な所作。
 凡そ、女子力と呼ばれるものの全てを兼ね備えた女性だった。
 唯一の欠点と言えば、そこまで完璧なのに、自分に自信がないことだった。
 そう、彼女は「強さ」に憧れていた。
 強さ。
 それは何なのか。
 一度彼女に質問したことがある。その時は、何なのでしょうね?と、はぐらかされた。
 さやさんみたいな……とか、ノアさんみたいな……と、憧れる対象を挙げるに留めた。
 しかし、僕は特に気に留めてはいなかった。強さがなんなのかなんて、考えたって答えが出るわけがないし、それこそ少年少女が悩む定番だ。時が過ぎるとともに自然に忘れていくことだろう、と思っていた。

   ◇ ◇ ◇

 今年の桜は、天気に恵まれた。
 神様が取り計らってくれたかのように、空は桜の満開に合わせて見事な晴天が広がっている。
「うーん、雲ひとつないな!」
「はい、いい天気ですねっ♪」
「風……あたたかい」
 僕たち3人は、家から歩いて行ける地元の公園に足を運んでいた。僕の両肩には、お花見のごちそう満載のバッグがずしりと食い込む。
 ヒューマノイドである2人が持った方が圧倒的に力持ちなので都合がいいのだが、若い女性2人に重そうな荷物を持たせて自分だけ手ぶらで歩くのは、周りの視線的に大変都合が悪い。
「マスター、疲れてる」
 ミオが、普段は見せないような態度で、優しげな表情で、僕を気遣ってくれる。どこから取り出したのかわからないが、ミオの持つおしぼりが、僕の額を優しく撫でた。冷たくしっとりと濡れていて気持ちがいい。
「い、いや、そんなことは……」
「ほら、マスターは疲れてないって仰ってます!マスターの体調は、私が一番よくわかるんです!」
 しぐれも、普段は見せないような余裕の無い態度でミオを牽制する。
「でも、マスターは優しいから、口に出さないだけかも。そこまで理解してこそ、真のサポート。違う?」
「ぐ、ぐぬぬ〜」
「キミら何を争ってるの!?」
 普段はこんなことで喧嘩をしない2人なのに、突然の駅モメ。
「マスター、声が大きい。外では静かに……あ、取らないで」
 しぐれが、ミオの手にあるおしぼりをサッと奪いとる。
「ミオさんがマスターのおでこを気安く拭くからです!マスターのお汗を拭うのは私だけの……あ、取らないでください!」
「気安くなんかない。サポーターとしてマスターのサポートをするのは大事な役目。あっ」
「ミオさんあなた最初はトリックスターだったでしょう!?」
 すかさずミオが奪い返し、そしてまた奪い返される。
「あ〜、2人とも、外では静かに……」
 2人の美女に囲まれて、公衆の面前で僕の汗を拭うおしぼりを奪い合う様は、まさしくハーレムラブコメの一幕だった。
 ミオがおしぼりを手に持ったまま、無表情でぐいぐいと近づいてくる。
「マスターはわたしとしぐれのどっちに汗を拭ってもらいたい?ねえ教えてマスター」
 いや、そもそも別に自分で拭けるっていうか大体ミオそんなキャラじゃないよね!?
「もちろんわたしですよね?マスター?」
 負けじとしぐれも笑顔のまま詰め寄ってくる。しぐれって笑顔が一番怖い……!
「いや……えぇっと……ちょ、ちょっとまって……」
 周りの視線が痛い……
「と、とりあえず周りに迷惑だから、一旦落ち着こう。な?」
「わかった、マスター」
「はい♪」
 突然2人はあっさりと僕から離れる。僕はうなだれるように大きく息をついた。

 想像通り、公園は大きく賑わっていた。
 ブルーやらシルバーやら様々なシートの隙間を縫うように奥へと進み、ようやくそれなりの場所を確保する。
 シートの四隅に荷物を置き、3人囲むように座ると、目の前には豪勢な料理が広げられた。
「いやぁ~!綺麗な桜だね。よし、早速呑ませて頂こうかな♪しぐれもミオも、遠慮なく寛いでく……れ……?」
 僕の目の前には、しぐれが差し出すビールグラスと、ミオが差し出すお猪口。
「マスター、お酒を注ぐわ」
「マスター、まずはおビールですよね?」
 両手に花。空にも満開の花。
「桜を眺めながら飲むならやっぱり日本酒」
「ビールは喉越しが命と言います!最初の一杯は是非ビールを!」
 二人ともなんでそんなこと知ってるの?
「マスター………わたしの………受け取って欲しい」
「み、ミオさん!どこでそんな色っぽい声を覚えてきたんですか!」
「なんのこと?わたしは感情が無いからわからない」
 喧嘩に発展しそうなので、お猪口とビールグラスを両方受け取り、同時に注がれる。家でもこんなレベルの低い言い争い、したことないのになぁ。

「おーおー!楽しそうだなぁ!」
「あ、清水さん、いらしてたんですね」
 隣のシートから突然声をかけて来たのは、隣の自治班の清水さん。町内会の重鎮だ。気難しい町内のお年寄り方の中では珍しく気さくな方で、助かっている。話好きで、一度捕まると30分は離してくれないのが玉に瑕だけど。
「ったりめえだろ。桜なんて後何回見られるか分からねえからな、ハッハッハッ!よし、飲もうや、こっちくるか?」
 あっちのブルーシートは、とてつもなく広い。一体どれだけ早くから陣取っていたのだろうか。
「2人とも、問題ないか?」
「わたしは問題ない」
 ミオは興味ないのか、即答する。
「しぐれはどう?」
「え?……大丈夫ですよ!」
「…………」
一瞬の戸惑いを、僕は見逃すことができなかった。
「マスター?」
「……いやぁ~すみません清水さん!連れが人見知りなので、今回は遠慮しますね。またこういう時があれば」
「そうか!ハッハッハ」
 清水さんは特に気に留める様子もなく、賑わいの中に戻っていった。
「マスター……あの」
ばつが悪そうにしぐれは申し出ようとするが、
「いいんだ、しぐれ。今日は3人で楽しみたい気分なんだ」
「……ありがとう、ございます」
 しぐれが申し訳なさそうな顔をするので、機嫌が良くなるように頭を撫でた。何やら難しそうな顔をしていたけれど、次第に機嫌を取り戻して朗らかな笑顔に変わっていった。
「ずるい」
すかさず隣から怨嗟の声が聞こえた。


   ◇ ◇ ◇

 初夏。
 ついこの間まで満開だった桜並木の花はとっくに散り、見事に鮮やかな緑色へと染まっていた。
 事前に何度も聞いてはいたが、やはり社会人になってからというもの、時が過ぎるスピードは学生時代と比べて異様に早く、しぐれと旅行をする約束は持ち越されたまま季節をひとつ跨いでしまった。
 しかし、ようやく訪れた黄金の週。気温は最早、夏と言えた。
 久々の車旅行。
 しぐれは、白い無地のシャツに水色のシースルースカートという真夏の装いだ。ラッピングタイトルは「夏祭りなしぐれ」。ダッシュボードに常備している地図帳を腿の上に置き、その上に両手を置いて、なにをするでもなく景色を眺めていた。本当は高速道路上からでも最寄りの駅の思い出を集めることができるのだが、流石に全部取っていたらキリがないし、しぐれが疲れてしまう。宿泊先に着いてからにしようということになっていた。
「楽しみですねっ!」
 ふいに、しぐれがこちらに笑顔を向けて言う。主語が無いが、なんのことかは訊くまでもなかった。なにせ高速道路に乗ってからそろそろ約2時間。もう見えるはずだ。今は上り坂で、この坂を上り切ると……
「わぁっ……♪」
 助手席側をちらりと見ると、晴れ渡った青空に負けないほど青い、日本海が広がっていた。しぐれの瞳が輝き、吸い付くように窓の外を眺める。
 今日が快晴でよかった。しぐれに、早速素敵な景色を見せることができた。
「海です!海ですよマスター!」
「うん、僕もよく見たいんだけど」
「マスターは~、危ないのでしっかり運転してくださいね?」
 などと、嬉しそうに言う。
「ははは、ちぇっ」
「マスターの分まで、私が景色を堪能して差し上げますね♪」
 3年も一緒に過ごして、最初はよそよそしかったしぐれも、ここまで言うようになった。
「後で浜辺沿いを走るから、その時に堪能するよ」
 しぐれが景色を堪能しているところを邪魔しないよう、ペットボトルを手に取リキャップを開けようとすると、
「あ、待ってください。私が……」
 と言って僕からペットボトルを奪い取り、キャップを開けて僕に渡す。
「ありがとう」
 常にサポートを忘れない。助手席に座りがいのある人だ。
「また飲むときはおっしゃってくださいね?」
「ごめんね、今しぐれを邪魔したくなくて」
「ふふ、大丈夫ですよ。それをおっしゃるなら、マスターのサポートも堪能していますから♪」
「あ、ありがとう」
 サポートも堪能、か。そういえばしぐれは以前、ミオにこう言っていた。
『自分がやりたいから自分の意思で勝手にサポートをさせてもらってる』
と。その意味がミオには理解できず、首をかしげるばかりだったが、本当のことを言うと僕にも理解はできなかった。
 いや、概念は理解できるんだけど、なぜ進んでサポートをしたいと思うのか。利益が得られるわけでもない。
 だけど結局のところ、しぐれはきっと、ただ心の底からサポートをしたいだけなのだろう。思い出集めだけではなく、身の回りの世話さえも精力的にサポートするのは、僕がマスターだからなのか。それとも、僕だからなのか。隣の席で咲かせるその無邪気な笑顔からは、読み取れない。
「到着まで、あと2時間くらいです。楽しみですね!」
 そんな下世話な思考を巡らす隣で、しぐれは向日葵のように笑う。
 軽く頭を振って思考から追い出し、時刻表示をみると、午前10時。今日の旅は、まだ始まったばかりだった。

 それからしばらく走り、お手洗いがてらの休憩にサービスエリアへと寄った。
 サービスエリアでご当地のグルメに舌鼓を打つのも、旅行の楽しみのひとつ。甘いものが好きなしぐれの為に、気の利いたアイスクリームを買ってあげた。
「ん~~~~!」
 一口食べただけでしぐれは目を見開いて美味しさに驚く。
「マスター、これとっても美味しいですよ!」
「そっか、買ってきてよかったよ」
「舌触りが普通のアイスと全然違います!」
「なんか、ご当地の芋が入ってるから、らしいよ」
「芋、じゃがいもですか?そうなんですね♪」
 しぐれがおいしそうに頬張っている。そんな顔を見るだけで、こちらも幸せな気分になれる。
「はっ、私ったらごめんなさい。はい、マスターも、どうぞ♪」
 そう言って木のスプーンですくい、その先を僕の口に向けてくる。
 マジか。こんな人前で、あーんと間接キスのトロフィーを同時に達成してもいいのか?
 戸惑ったら負けとばかりに、目を閉じてスプーンにかぶりついた。口の中にひんやりとした濃厚な甘さが広がる。美味しい。
「こっちも、食べてみる?」
 お返しにと、手に持っていた食べかけの練り物の串を差し出す。
「はい♪あっ…………」
 しかし、しぐれはなぜか顔を赤くして、串を見つめたまま固まってしまう。
「しぐれ?」
「えっ?あっ!す、すすすみません、大丈夫です!」
「うん、食べる?」
「い、いえその!大丈夫です!……わたしったらなんてことを……」
 目を伏せ、焦りながら答えた。
「そう……?まぁ、いいけど」
 なんだか頑なに断られてしまった。少しバツが悪い。しかし、流れに逆らうこともせず、手に持っているものを食べる。お互いが食べきるまで無言を貫き、なんだか妙な雰囲気になってしまった。

 なんとか気を取り直した僕らは高速道路を降り、更に北上する。
 そして、目的地の一つであった、とある浜辺に到着した。ここは、ひたすらにまっすぐ続く砂浜を車で走ることができる、珍しい場所だ。綺麗に晴れた今日は、絶好の走破日和だ。
 エアコンを切り、窓を全開にして、爆走する(制限速度内)。しぐれは被った帽子が飛ばないように片手で押さえながら、弓なりにどこまでも続く波打ち際を眺めていた。
 海を見ながらしぐれが呟く。
「来て、良かったですね」
「え?なに?」
 両窓が全開の為、風の音に紛れてよく聞こえない。
 しぐれは振り向いて、僕の肩に手を置いて体重を掛ける。
「今日ー、来て良かったですねー!」
 耳元で、少し大きめの声。
「ッ!あ、ああ、そうだな」
 驚いたのと、ぞわぞわするのとで気を取られ、しぐれと見つめ合ってしまった。
「あ…………」
 至近距離で見つめ合っていることに今更気付いたしぐれは、突然顔を真っ赤にして反射的に離れる。
「あっ……!ごっ……ごめんなさいっ!」
「い、いや!いいんだ」
 恥ずかしそうに俯くしぐれは可愛らしく思う。
 僕との接近でこんなに恥ずかしそうにしてしまうしぐれを見ると、勘違いしてしまう。
『僕の事が、好きなんじゃないか』って。
いけない。期待してはいけない。
しぐれの可愛らしい表情に期待をしてしまう一方で、心は急速にブレーキがかかっていく。
期待をすればするほど、裏切られる怖さが頭をもたげてくる。
 不思議なことに、一度そう思ってしまうと、人間自然と心が高鳴ってしまうもので、この旅行はデートなのだと改めて認識することになった。

 少し早いが、旅館にチェックインした僕らは、温泉を楽しみ、部屋で火照った身体を冷ましていた。一日の疲れが癒えてゆく、旅行の中でもかなり好きな時間だ。
 しぐれは窓側にある椅子に腰かけている。旅館でお馴染みの妙に居心地のいい、『広縁』と呼ばれるスペースだ。彼女は備え付けの藍色の浴衣に紺色の羽織姿。湯呑を優しく両手で包み込みながら、窓から差し込む夕陽を眺めていた。
 僕も座卓に肘をついて夕陽を眺めていたが、窓からの景色をよく見たくて、広縁に近づく。目が合って微笑みあうと、もうひとつの椅子へ対面するように腰かけた。
「マスターも飲まれますか?」
 言うが早いか、すでに用意されていた僕の分の湯呑に急須の中身を注ぐ。お礼を言って受け取りそのまま口に運ぶと、長時間急須で蒸されていたお茶はぬるく、そして苦かった。
 ほっと一息ついて背もたれに身体を預ける。目の前のしぐれは浴衣姿がとても似合っていて、湯呑を持つその姿も、様になっていた。
「ふふっ、そんなに見ないでください、マスター」
 恥ずかしそうに笑い、照れ隠しのように夕陽に目を向けるしぐれ。濃いオレンジの光がしぐれの姿を立体的に映し出し、影を作る。恐ろしいほどに綺麗だった。
 夕陽は真っ黒な山の中へと溶け込み、橙と紺が混ざりあう18時半。
 いつもリビングから覗く夕陽にこんな感情は持たない。旅先ならではの、そう、それは言うなれば旅情。
「いい、景色だね」
「はい……それに、いい旅館ですね」
 目を合わせずに取り留めのない会話に終始する。それくらい、今の僕はしぐれを直視できない上に、緊張していた。こちらを見ないしぐれも、同じ思いをしているといいな、と思いながら。
 そんな静寂を引き裂くように、夕飯を持った仲居が定刻通りにふすまの奥の扉を叩いた。
コースについている食前酒とは別で、地酒を注文する。しぐれは、なにも言わずとも徳利を手にして、僕は視線で指示されるままに御猪口を差し出した。
 袖を押さえながら座卓越しにお酌をする仕草が、妙にクるものがあって、なんだかしぐれと夫婦になったような錯覚さえしてくる。しぐれが御猪口を手にしたので返杯をすると、しぐれも同じことを考えているのか、くすぐったそうに笑った。
「……あれ?っていうか、しぐれってお酒飲めるんだ?」
 今更だけど。
「?はい、飲めますよ♪」
 飲めますよとおっしゃる。知らなかった。
「そうだったのか。てっきり飲めないものかと」
 だって、ねえ?なんとなく、イメージ的に。見た目少女だし、ヒューマノイドだし。花見でも飲んでなかったし。
「そんなに、強いわけではないですけどね」
 しぐれは御猪口をご丁寧に両手で持ち、わずかに掲げた。
「飲める人は、みんなそう言うんだ」
「大丈夫ですよ、本当に……あ、おいしい!おいしいですね♪」
 ぱっと笑顔の花が咲く。一口だけで上機嫌になり頬に手を当てて舌鼓を打った。

………
……


「ですから~、ミオさんが感情豊かになるかどうかは~、マスターの手にかかってるわけです。聞いていますか?」
「聞いてる、聞いてるよ」
 普段見られないムスっとした顔で僕を非難するしぐれ。
「私、マスターにならできると思うんですっ!」
 これまた普段使わない断言する口調で僕をにらみつけ、空になった御猪口を差し向けてくるしぐれ。
「んふふふふ、ありがとうございます、マスター♪」
 差し出した御猪口に地酒を注がれて御満悦のしぐれ。
 さっきから注ぎ役と聞き役に徹している僕は、普段では絶対に見られないしぐれを観察していた。
 やはりしぐれはお酒に強かった。人間でしぐれくらい小柄だと、ここまで日本酒を飲めるひとは、あまり見ない。
 しかし、強いとはいっても何も変化がないわけではなくて、機嫌がころころと変わり、そして饒舌になっていった。
「なんのお話でしたっけ?……あっ、ですから~わたしはミオさんのこともサポートしてあげたいんです!そのためにはマスターの協力が必要不可欠なんですよっ」
「うん、うん、そうだね」
「なのにマスターといえば、ぜんっぜんミオさんとお話してません!ミオさんとの思い出作りが全然足りてません!マスターの責任なんですよ?」
「そうだね、ごめんね」
 ただの難癖に近い非難も、今はなんだか嬉しい。
 しぐれと出会ってから3年。これまでこんなにもしぐれの「感情」を浴びたことは、今までなかった。
 そう、ミオほどまでとは言わないが、しぐれという人のことをこれまでよく理解できていなかったのだ。
 一見普段から笑顔を湛えてサポートも完璧で聖人のような性格をしているように見えるが、善の感情しかしぐれからは伺えず、感情はあっても逆に人間らしくないというか……完璧すぎて近寄りがたかったのだ。
 お酒に酔ったせいでそのタガが外れ、これまで隠していた負の感情を露わにしているのだとしたら、これまでどれだけ完璧に隠し通していたのだろう。それぐらい今のしぐれは、「人間らしい」感じがした。
「もぅ、絶対聞いていないでしょう、マスター?」
「ごめん、酔っちゃったみたいだ」
「あらあら、マスターはお酒に弱いですね♪」
 お酒というより、しぐれ、君の感情の雨に酔ったんだけどな。
 しぐれはかなり飲んだにもかかわらず全くふらつくことなく立ち上がり、仲居の仕事を奪って布団を敷き始めた。
「マスター、こちらへどうぞ♪」
「えっ、一組だけ?」
「え?…………ふぇっ」
 突然真っ赤だった顔が更に真っ赤になり、しぐれが硬直する。
「あ……あの……ご、ご一緒は流石に……!これはマスターの分で……!」
「あっ、だ、だよね!ごめん、変なことを言って」
「い、いえ……わ、私の分は旅館の方がお皿を下げてくださってからじゃないと敷けませんし、マスターが眠いみたいですから先にと思いまして……」
「あ、なるほどね、ありがとうしぐれ」
「さ、さぁ!どうぞマスター!」
 慌てふためいているのか、声が少しうわずっていた。しぐれは掛け布団を持ち上げ、布団に入るよう促してくる。やれやれと思いながら敷布団に横たわると、しぐれは鼻歌を歌いながらゆっくりと僕に掛け布団を掛け、枕元にそのまま正座した。
「ふふ~♪ちゃんと寝られそうですか、マスター?何か私にできることはありますか?」
 酔ってサポート精神全開のしぐれは、楽しそうに頭を左右に揺らしながら、甲斐甲斐しくお世話をしようとする。
「いや、えっと……」
 だが、僕は会話に集中できない。枕元、僕の顔のすぐそばにしぐれが座っていて、しぐれの膝小僧がすぐ目の前にあって、しぐれの匂いがして、しぐれは酔っていて……ダメ、ほんと間違いが起こるからダメ。
「だ、大丈夫、大丈夫だから……」
「本当ですか?なんだか様子が変ですが……妙にソワソワしているといいますか……う~ん」
 様子が変なのはキミだよ!……ああ!かがんじゃダメ!胸元が!うわ、やっぱりしぐれって、着やせするタイプなんだな……
「あっ!どうしてそっぽ向いてしまうんですか~!?」
 見なくて済むようにしぐれとは反対方向に寝返りを打つと、背中から嘆き声が聞こえる。しぐれの浴衣がはだけて胸が見えそうだからだよ!言えないよ!
「…………」
「ど、どうしてそっぽを向いたまま返事をして下さらないのですか~!?私にサポートをさせてくださいっ」
 しぐれに肩を掴まれ、無理やり寝返りを打たされる。
「い”っ!?」
 しぐれは四つん這いの体勢でこちらに近づいてきたので、めくれた浴衣から真っ白なふとももが……しかも豊満な双丘が重力に負けて、う~ん、たゆんたゆんってやつなのかな?先端は見えていないけどそれ以外は全部丸見えってやばいっスか?うわぁ、がんばろう。ビッグになろう。何がだ。
「???どうされましたか?」
「えっと……浴衣を……直してほしいんだ」
「ん~~?……………ひゃあんっ!」
 自分の今の姿をようやく認識したしぐれは、一気に酔いが醒めたのか勢いよく身体を隠した。危なかったような、残念なような。
「…………」
「…………」
呼吸を止めて1秒。
「わ、私ったら、なんてはしたないこと……ちょっと頭を冷やしてきます!」
 酔ってる時よりも顔を真っ赤にしたしぐれが、鍵を掴んで出ていく。ふすまがものすごく大きな音を立てて閉まり、目の前からしぐれが見えなくなると、僕はようやく大きなため息をついた。
 あぁ、目に毒だった。はだけた浴衣から覗く、真っ白で綺麗な肌。豊満な胸。綺麗な太股。目を閉じると、焼き付いた映像が浮かび上がる。今夜は眠れそうにないな。
…………
………
……


 目が覚めて、現状を把握する。
 そうか、ここは旅館で、今は旅行中だっけ。
 恐らくもう太陽は昇っているだろう。強い光が閉じられた広縁の襖から漏れて、障子が真っ白に光って眩しい。
 目を覚ますためにしばらくその光を眺め、頭がすっきりとしてきたら寝返りを打つ。隣の布団でしぐれが寝ていた。
 珍しい。僕より起きるのが遅いなんて。いつもは進んで僕のお世話をしようと起きて準備をしてくれているのに。
 起き上がって夕べのお酒が身体に残っているかどうかを三半規管に訊ねる。問題なさそうなので立ち上がり、苦いお茶を淹れようと座卓に近づくと、視界の端でしぐれが動いた気がした。振り向くと彼女は、顔を隠すように掛け布団に頭を埋めている。
「………しぐれ?」
「……………………はいっ……」
 数瞬の間を開けて、くぐもった声で小さな返事がきた。寝ぼけているわけではなさそうだ。
「おはよう。どうしたの?」
「……おはようございます。ちょっと、お顔を見られません」
「どうして?」
「~~~~~~!」
 しぐれは悶えるように身体をよじり、布団の中で器用に寝返りを打つ。
「夕べのことが、恥ずかしすぎて……ちょっと、心の整理をする時間を……」
「あはは、別に、気にしないよ」
「本当ですか?」
 綺麗だけどぼさぼさになった黒髪が布団から顔を出し、わずかに瞳が覗く。
「うん、大丈夫、忘れてしまおう」
「(せっかく頑張ったのに、忘れないでくださいよ、もう……)」
「ん?なんて?」
「なんでもありませんっ」
 怒気を込めた言葉とともに布団から起き上がると、しぐれはそのまま顔を隠すように洗面所へ向かってしまった。時計を見ると、午前8時半。今日もいい日になりそうだった。

 まだ朝なのに、朝日をたっぷり浴びた車内は既に灼熱だった。
「うわ、あっつい!やけどに気を付けて」
「………はい」
 エンジンをかけてエアコン風量を最強にしたらすぐ外に逃げ、ある程度車内温度が下がるのを待った。今日も暑くなりそうだ。もちろん、旅行する身として、雨の日よりは断然ありがたい。東の空を見上げると、真っ白な太陽が目を焼いた。
 しぐれは暑さに気怠さを覚えているのか、それとも昨日のことを引きずっているのか、朝から少し元気が無い。なんとか気にしていないことを伝えてやりたかったが、どう伝えればいいものか分からない。
「もうすぐ高速に乗るからね、コンビニに寄らなくて大丈夫?」
「……大丈夫です」
 眉尻を下げ、下を向いたまま答えるしぐれ。多分昨日のせいだと思うけど、恥ずかしいだけじゃなくて、二日酔いなのかな?僕よりもかなり呑んでいたし。
「……やっぱりちょっとコンビニ寄ろうか」
 インターチェンジ手前ギリギリの所でコンビニに滑り込む。しぐれは車内で待機していて、僕は手早く買い物を済ませた。
 コンビニを出ると、車内にいるしぐれは、目を閉じていた。やっぱり、二日酔いで頭が痛いのかもしれない。
「しぐれ」
「あっ、おかえりなさいマスター……これは?」
 きょとんとするしぐれに、一本の瓶を手渡す。
「なんだか辛そうに見えたから、ひょっとしたら二日酔いなのかなって……思って……違ったかな?……違ったらごめん、僕が飲むから」
 二日酔いに効く栄養ドリンクの小瓶を渡した後に二日酔い以外の可能性を全く考えていなかったことに気付き、今更ながらわたわたと取り繕う。
「…………くすっ」
「へ、な、なんで笑うの?やっぱり違った?」
「いえ、ありがとうございます、マスター。優しいんですね」
「いや……」
 突然照れくさいことを言われ、思わず謙遜してしまう。
「いただきますね」
 30ml程度の小瓶だ。しぐれは2、3口ですぐに飲み干した。
「ふぅ。二日酔い、今、治っちゃいました」
 しぐれは今日初めて見る朗らかな笑顔で、そううそぶいた。
「そ、そうなの?」
「ふふっ、さあ、行きましょうかっ」
 元気を取り戻したしぐれは、さっきまでの表情が嘘のように朗らかに笑っている。その姿が僕にはなんだか無理をしているように見えて、釈然としない違和感を抱えたまま、しかしそれを問い質す必要も、理由も、勇気も見つけられず、僕はアクセルを踏んだ。
 …………でも結局、その違和感の理由はすぐに判明することになる。
 高速道路をしばらく無言で走る。ふと気になって、
「しぐれ、昨日言ってたご当地みかんソフト、どうする?」
「………ふぁっ?ごめんなさい、聞いていませんでした」
「あぁ、えっと、みかんソフト、食べに行くか?って」
「あ、は、はいっ!よろしければ、食べに行きたいです」
「了解、じゃあ後で寄ろう」
 また、しばらくして。
「しぐれ、今夜の旅館だけどさ」
「…………」
「……しぐれ?」
 左をみると、しぐれは、うつらうつらと舟をこいでいた。
「あ……」
 目が覚めると僕と目が合い、
「……ごめんなさい、ゆうべ、あまり眠れなくて」
 現行犯で捕まったしぐれは観念してばつが悪そうに白状した。
「そうだったんだ。寝てていいよ。着いたら起こすから」
「いっ……いえいえ!そんな、私助手席なので、サポートしませんと」
「大丈夫だよ。どうしても助手してほしいことがあったら、その時は起こすから」
「すみません……」
「気にしないで。その代わり、着いたら元気に楽しんでね」
「ありがとう、ございます……」
 安心したのか、しぐれはヘッドレストに頭を預け、柔らかく目を閉じた。そして手をゆっくりと下ろし、
「あ…………」
 僕の左手と、しぐれの手の先が触れた。
 僕の心臓は、一気に高鳴る。
「ご……ごめっ」
 とっさになぜか謝ってしまうも、しぐれはゆったりとした雰囲気で
「いえいえ……」
 目を閉じたまま答える。もう夢半分なのか?
 そしてまたしぐれの腕は、ゆったりと動いて……
 ………再び僕の指に触れた。
 たったそれだけなのに、夕べみたいに胸や下着が見えそうなわけでもないのに、昨日よりもはるかにどきどきして、心臓の鼓動がうるさい。
 しぐれ、君は気付いているのかな?
 僕らの指、触れあってるんだよ。
 それとも、寝たふりでわざと触れてるのかな?
 前を走る車だけを見ながら、全神経が左手に集中する。白くて、細くて、あたたかいしぐれの指。
 緊張を飲み込むと、しぐれに聞こえそうなほど大きく喉が鳴った。
 そして僕は、意を決して……

 しぐれの手を、握った。

「…………」
「…………」
 永遠とも思える数秒の沈黙の後、しぐれはゆっくりと薄目を開き、目が合った。
「嫌、かな」
「ふふ、その、嫌ではないんですけど、だめ、です」
 額面上は、拒否の言葉。
 しかし、重ねられた手を、払おうとはしない。
 矛盾する、言葉と行動。
 その言葉を、その行動を、僕はどう受け止めればいいのだろう?
 ダメとは言われたけど、あんなに優しそうな笑みを浮かべられて……
 だから、僕は決めた。

 旅館。
 布団の中でくうくうと眠るしぐれの隣で、僕は旅行雑誌をめくる。
今度は僕が眠れないでいた。
 明日の旅程を念入りに確認する。明日はしぐれと2人きりの旅行最終日。めいっぱい楽しんで、たくさん手を繋ぎ、最後に訪れるのは、このページのこの写真。この夕陽に染まる街並みを見下ろすドライブウェイの展望台だ。ロマンチックな夕焼けをバックに、僕はしぐれに告白する。
 明日のプランは完璧だ。
 隣で眠るしぐれを見る。こんなにもすぐ近くにいて、3年間ずっとそばにいてくれた。
 今頃になって気付いた、しぐれからの愛。そして自分の中にある、しぐれへの愛。
 明日からは、ようやく2人で育んでいけるはずだ。
 僕はこれまで、勝手に期待して一人で舞い上がり、最後の最後で手のひらを返されることを繰り返した人生だった。
 でも、今回は違う。直接言葉として伝え合ってはいないけど、確実に心は通い合ってる。
 この旅行で、たくさんのしぐれをみてきた。食べさせ合いに照れるしぐれ、突然近づいてきて逆に慌てるしぐれ、お酒に酔って甲斐甲斐しくなり、ガードが甘くなるしぐれ、優しいんですねと言って寝顔を見せるしぐれ、どれも可愛かった。思い返してみると、この旅行だけではない。しぐれはずっと、可愛かった。そうだ。僕はずっと、この美しい少女に恋をしていたんだ。そして、この旅行を経て、しぐれの人間らしいところを見て、もっと好きになったんだ。
 明日の夕方からは、少しだけ違う関係になる。
 僕は眠くなるまで、明日の告白を脳内で予行演習し続けた。


 翌日。僕らは目いっぱい楽しんだ。
 まるで恋人同士のように仲良く観光して、そして狙って最後に回した目的地、とある山の上へときた。
 ドライブウェイを上りきった先にある、山頂の駐車場と接続している展望台は更に小高くなっていて、階段を上り切ると眼下に広がる地方都市も、遥か向こうに連なる山脈も一望できる、お得なスポットだ。正直家からもそんなに遠くない。機会があればまた来ることもできるだろう。
 電車旅行ではたどり着けない、この景色。ここに来たのは初めてだけど、なんだか久しぶりな気分だ。最後に回しただけあって、もう日は傾ききっている。おととい泊まった旅館の広縁で見たような夕景。山々はオレンジ一色となって、しぐれは「わぁ……」と小さく声を上げた。
 周りには誰も観光客がいない。今しかなかった。
 緊張でめまいがする。でも、今以上にロマンチックな景色はこの先ないだろう。やはり今しかなかった。
「しぐれ」
 呼び止めると、しぐれはこちらを向き直った。
「はい♪」
 何も知らずに、しぐれは上機嫌で振り返る。柔らかな風で揺れるカーテンのように優雅に翻るそのワンピースと仕草が映画のワンシーンのようで、まるで舞台に立たされたような緊張感に、握ったこぶしは自然と力が入ってしまう。
「しぐれに、伝えたいことがあるんだ」
 改まって言う僕の雰囲気を察したのか、しぐれは急に真剣な表情になる。
「え……?」
「しぐれ……僕は」
 言う。言うんだ。こんなに心が舞い上がるのは初めてだ。最後に手のひらを返されてばかりなのも、今日までだ。
「あ、あの、待って……」
「え?」
 突然遮られ、僕は出鼻をくじかれる。
「良い、景色ですよ?」
 わざとらしく笑って、眼下の街並みを指差す。
「いい景色だね。だけど、今は僕の話を聞いてほしい」
 でも僕は、しぐれから瞳を逸らさない。
「あの、それは……」
 負けるな、僕。
「僕は、しぐれのことが…………」
「あっ……だ……」
「しぐれのことが、好きだ」
「………………」
「しぐれのこと、好きだ。もう、ずっと一緒に暮らしてるけど、改めて、僕の恋人になってほしい」
 言った。言い切った。長かった。これまで、勝手に期待して、舞い上がって、



「………………………ごめんなさい」

 ほら、な。




第二章

「あ、あ………あは、は………」
 勝手に口から乾いた笑いが漏れ出す。思考は完全に停止している。
「…………」
 しぐれは目を合わせられないのか、ずっと俯いたままだ。
「えっと……ごめんな……」
「いえ、ごめんなさい……」
「…………」
「…………」
「だって、その、勘違い、しちゃってさ。僕のこと好きなんだろうって……手も、繋いだし」
「えっと……それは……ごめんなさい……」
「デートみたいで、すごく幸せで……しぐれも、きっと同じ気持ちだろうって……」
「……………」
「僕と同じ気持ちで、好きなんだろうって……」
「ごめんなさい……」
「どうして……どうして手を、繋いでくれたのかな……」
「…………」
「どうして、あんなに笑いかけてくれたのかな……どうして、あんな、楽しそうに……っ」
 男として最低な、『なぜ振ったのか』という禁忌の質問。でも、だってそうだろ?わかんないよ。さすがにさぁ。
「…………」
「僕が、勘違いしてただけだったのかな……?あんなに優しくて、あんなに献身的だったけど、本当は僕のこと、好きでもなんでもなくて」
「いえ、それは……そんなことは」
「だったらなんで!なんで……あんなに優しくしたんだよ…!僕のこと好きじゃないなら…!なんであんな、幸せそうな…!」
 そうだ。おかしいじゃないか。あんなに、幸せそうに頬染めたり、酔った時にあんなに無防備になったり、手を握ったり……あんなの、好きでもない男にするもんかよ……
 意味のわからない怒りが湧き上がってくる。
 ただ、それでも。
「……私のせいだって、仰るんですか?」
「え?」
 それでも、僕の失言は、もう取り返しがつかない。
「私がマスターに献身的だったら……わたしがマスターに優しかったら……マスターを振っちゃ、いけないんですか?」
 初めて見る、しぐれの、睨みつける目。
「いや、ちが、違うんだ」
「ご自分の恋なのに、私に責任を求めないでくださいっ……!」
 終わった。やってしまった。しぐれの冷たい視線が、うろたえる僕に刺さる。全てが、空回りだった。2人が結ばれるに相応しいロケーション作りが、その場所を含めた旅行準備が、僕のことを好きでいてくれているという前提さえも、全てが独りよがりな、ただの思い込みで。
「っ……!う、うぅ……ぐすっ」
 どうして、振ったしぐれが泣くんだよ。泣きたいのは、僕の方だというのに。
「マスター……どうして……どうしてっ……」
 手の甲で涙を拭いながら、しぐれは小さい声で呟く。
 つまり、あんなに幸せそうだった照れ顔も、ただ恥ずかしかっただけで。
 つまり、あんなに信頼されてるように見えた無防備さも、ただ酔っていただけで。
 つまり、手を握った時も……いや確かに、「だめです」ってあの時言っていたけどさ……僕が無理やり握っただけなんだけどさぁ。
 嘘だろ。ちくしょう、なんだよ、それ。
「帰りましょう、マスター」
「…………」
「マスター……」
「あぁ……」
 そこから先、どうやって車に戻り、どうやって家路に着いたのか、もはや覚えていなかった。



 家に着いてドアを開けると、ミオが出迎えてくれたが、僕としぐれの表情と様子から、すぐ異変に気付いたようだ。
「何があったの?」
「いや、なんでもないんだ」
「…………」
 バレバレの嘘をつく。後ろのしぐれは黙ったままだ。
「嘘。絶対何かあったはず。……喧嘩したの?」
「まぁ、そんなところだ」
「なら、仲直りするべき。マスター早くしぐれに」
「ミオさん」
 勝手に僕が悪いと断定しようとしたミオに、しぐれが口を開く。
「少し、そっとしてあげてください。あと、わたしにも。すみません……」
「…………」
 空気を読んだのか、意味を理解できなくて諦めたのか、ミオはこれ以上何も言わずに踵を返してリビングへ向かっていった。いや、前者だろう。ミオはここしばらくで一気に感情を理解するようになった。
 しぐれもそのまま靴を脱いで丁寧にシューズボックスへ仕舞い、自室へと閉じこもっていった。僕も疲れてしまった。シャワーを浴びずに、そのまま寝たい。
 正直寝られるとは思わなかったが、靴下を脱ぎ、シャツのボタンを外してベッドにもぐりこむと、相当疲れていたのか、それとも辛すぎる現実から目を逸らしたくなったのか、簡単に眠りへと落ちていってしまった。

 翌日から、地獄のような日々が始まった。
 朝起きると、旅行最終日のことが夢ではなかったことを再確認することから始まる。
 しぐれは僕が出勤後に起きだして、心ここにあらずといった具合で暮らしているらしかった。
 日常に、しぐれがいない。一緒に住んでいるのに、姿が見えない。たったそれだけで、世界が沈んだままのように感じた。
 朝の出勤前に、せわしなく働いて僕を笑顔で送り出してくれたしぐれがいない。
 夜帰ると僕におしぼりをくれたしぐれがいない。
 毎日笑いかけてくれたしぐれが……
 あの楽しかった日々を、僕が破壊してしまった。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう。
 ミオは僕だけでなくしぐれに対しても、丁寧にケアしてくれた。必ず仲直りできると、励ましてくれた。正直、救われた。

 そしてそんな日々は5日目に突入し、その日の夜。
「ん?」
 リビングで食器を洗っていると、後ろから軽く引っ張られる感じがして振り向く。
「…………」
 ミオが何も言わずにこちらを見上げ、僕のYシャツの裾の端を引っ張っていた。
「どうした?ミオ」
「わたし、しぐれと話そうと思う」
「大丈夫、なのか?」
「わからない。でも話さないと何も進まない」
 その通りだと思う。僕はミオに全てを託し、家から一歩出た。外の空気は、風がないせいなのか夜中なのにじんわりと暑く、春の終わりを強く実感した。
 頼む、ミオ。
 どうすればいいのかわからないけれど、僕はまたしぐれと……大好きなしぐれと、笑って話せるようになりたい。いつも頼りっぱなしだけど、お願いだ。

    ◇ ◇ ◇

 自室に引きこもってぼんやりと考えごとをしても、もはやなんの解決策も出ないままで、いたずらに時間が過ぎていくだけでした。
 マスターを避けるようになってしまってから、これでもう何日目でしょう?数える事もやめてしまいました。一週間くらいは経ったと思います。
 本当に、どうして、こんなことになってしまったのでしょう。
 マスターのこと、誰よりも好きでしたのに。
 その時、扉を叩く音がしました。乾いた音が二回。私は息を飲んでしまい、返事をしたくても声が出ませんでした。だって、マスターかも知れないと思うと……
「しぐれ、話をさせて」
 声の主は、ミオさんでした。開けようか迷っていると、ガチッとドアノブを開けようとする音が響いて、私はすくみ上ってしまいます。
 恐る恐る近づいて扉の鍵を開けると、ミオさんが部屋に入ってきました。
「ごめんねしぐれ、こんな夜に」
「いえ……」
 ミオさんは後ろ手に扉を閉め、いつもの無表情でこちらを見つめます。いつまでも塞ぎ込んでいる自分がなんだか恥ずかしくて、目を逸らしてしまいました。
「そろそろ、何があったのか知りたい。しぐれの力になりたいって、ずっと思ってたから」
 さすがミオさん、前置き無しの直球勝負です。そしてその嬉しい言葉に、私も誠意で応えようと思いました。
「…………マスターに、好きだと言われました」
「っ………………おめでとう」
 こんな顔もするのか、と思ってしまうほど、ミオさんの表情は驚きに満ちていて、辛うじて返事できたような、そんな狼狽え方でした。
「ありがとう……ございます……でも、マスターの恋人になったら、ミオさんが帰らなければいけなくなってしまいますし……ご存知ですよね?そのルール」
「知ってる」
 複数体のでんこが1人のマスターのもとへ派遣されている場合、そのうちの誰かがマスターと恋仲になってしまうと、他のでんこは別のマスターのもとへ再派遣する為に一旦未来へ帰らなければいけなくなってしまいます。
 でんこ同士の確執を防ぎ、お仕事を円滑にこなす為のルールでした。
 私がマスターのもとへ派遣された際も、約款に記載されていましたが、多分細かすぎてマスターは読んでいないだろうと思います。
「それに、マスターは人間で、私はヒューマノイドです。戸籍もないから結婚できないし、人間じゃないので子供も作れません。マスターの幸せを思えば、マスターは人間の女性と結ばれるべきなのは明白です」
「…………」
 マスターも、人としての幸せがあるはず。マスターは作り物の私に恋をしてしまって、大事なことが見えなくなってしまっています。
 そう。絶対に後悔してしまいます。マスターが年老いても、全く見た目が変わらない私。我が子を育てる喜びを分かち合えない私。マスターの本当の幸せを思えば、私のこんなちっぽけな恋なんて。いえ、まぁ、3年間想い続けましたが……マスターの人生を台無しにしてまで、自分の気持ちを押し通すなんてことできるわけありません。
「私は、どうすればいいのでしょうか……?」
このまま、マスターのおうちで引きこもり続け、迷惑をかけ続けるわけにもいかない。
「わたしには、分からない」
 ミオさんがよく言う台詞。人と機械の恋なんて、普通の相談事ではありません。
「やっぱり、そうですよね……ミオさん、ありがとうございました」
 適当に感謝を告げて部屋から追い払おうと思っていました。
「ううん、違う。わたしに分からないのは、しぐれのこと。どうして告白されたとき、マスターの胸に飛び込まなかったの?」
 …………え?
「マスターはしぐれのことが好き。しぐれも、マスターのことが好き。それなら、どうして?」
「はぁ…………」
 一瞬驚きましたけど、やっぱりミオさんは分かっていませんでした。
 最近のミオさんは、感情を理解し始めている節がありますが、まだその先にある心の機微までは早いのかもしれません。教えてあげたいですが、自分の胸をえぐる行為のような気がして、気が向きません。
「ミオさん………もう、そんな簡単にはいかないんです。相談に乗ってくれて、ありがとうございました」
 形ばかりの感謝の言葉を告げ、今度こそ部屋から追い払おうとしました。けれど。
「ううん、しぐれ、あなたは逃げてるだけ」
「ッ……!?」
 なん……て?今、なんて言ったのでしょう?
「ミオ……さん……?」
「しぐれ」
 狼狽えた私をミオさんの瞳が捉えて、私はふいに背筋を伸ばしてしまいます。
「わたしはしぐれの気持ち、全部理解できているわけじゃない。でも、マスターを想うあまり、自分の本当の気持ちを押し殺していることは、わかる」
「…………」
 的確、でした。でも、今更自分の気持ちに素直になって、どうするというのでしょう?
「しぐれがマスターのこと要らないなら、わたしがもらう」
「は…………えっ!?」
 私は耳を疑いました。なぜならその言葉は、とてもミオさんから飛び出るとは思えない言葉でしたから。
「わたしもマスターのこと、好きだから」
 目も、疑いました。なぜなら今私の瞳は、これまで一度も見せたことのない、恥ずかしそうに目を逸らして語るミオさんの乙女な姿を、映していましたから。
「あ……の……?」
「しぐれと相思相愛みたいだったから諦めていたけど、しぐれが要らないというのなら話は別。わたしはマスターと恋仲になりたい」
「ちょ、ちょっと待ってください!わたしの話をちゃんと聞いていましたか!?わたしはマスターがちゃんと人間の女性と結ばれるようにって……」
「関係ない」
「そっ……そん、な……だって、あなただってヒューマノイドで……」
「それも関係ない。わたしはマスターが好き」
「……………」
 黒くて冷たい瞳に見つめられると、寒気がします。ミオさんの考えていることが、私には解りません。
「マスターが、わたしたちヒューマノイドと結ばれて幸せになれるかは、マスターが決めること。わたしはマスターが好きだからマスターの胸に飛び込む」
「……」
「それだけ。違う?」
「違い……ませんけど!でも!わたしはマスターへの迷惑を考えて……!」
「迷惑かどうかも、マスターが考えること。わたしや、しぐれが決めることじゃない。わたしはこれからマスターに好きだと伝えるから、迷惑だったらひくし、そうじゃなければ、マスターはわたしがもらう。しぐれは規約通り、未来に帰るといい」
「だめですッ!ミオさん、あなたはそんな人だったのですか!?見損ないました!」
 声を荒げる私とは対照的に、ミオさんは心底理解できないといった表情で首を傾げました。
「・・・・・・どうして?しぐれがマスターのことを諦めるのなら、わたしがマスターと結ばれても」
「私はッ!」
 失望したくなくて、遮るように叫びます。
「私は、ミオさんが未来に帰らされてしまうことも考えて、マスターを振ったのに!それなのに、どうしてそんな、平然とマスターを奪おうとするんですかぁ!!」
 悔しくて、悲しくて、涙が出そう。目の前の澄ました表情のミオさんには、きっとこの気持ちも伝わっていない。
 その証拠に、ミオさんは表情を少しも変えずに、
「そんなこと、わたしは頼んでない」
 などと言ってみせる。
「っ!!・・・・・・わかりました。でしたら私も、もう遠慮しません」
 今、私は、これまで誰にも見せたことが無い歪んだ顔でミオさんをにらみつけているでしょう。激しい怒りで、我を忘れてしまいそう。
 でも、宣言した通り、もう私は遠慮しないと決めた。
 初めて感じる熱い気持ち。
 自分でも制御できないほど心が燃え盛り、無いはずの心臓が強く跳ねる。唇と指先の震えが止まらない!
 そして、大きく息を吸って、決別を……

「たとえ、ミオさんが未来に帰ることになっても、マスターは……絶対渡しません!!」

「・・・・・・ふふっ」
 決別の・・・・・・言葉を叫んだはずなのに、ミオさんは、なぜか柔らかく笑いました。
「な、なにがおかしいんですかぁ!」
「・・・・・・それがしぐれの本当の気持ち。しぐれは、その気持ちを優先するべき」
「は・・・・・・、え・・・・・・?」
 元々、怒るのが苦手だった私の顔は、突然の笑顔に惑わされ、すぐに真顔に戻してしまいました・・・・・・いえ、きょとんとしてしまいました。
「あの・・・・・・ミオさん?」
「しぐれ」
「は、はいっ」
 真っ直ぐ見据えてくるミオさんの瞳が、今度は『大事なことを伝えたい』と物語ります。
「しぐれは、以前強くなりたいと言っていた・・・・・・強さには色々あるけれど、しぐれに必要な強さは、自分の想いを、なによりも優先させること」
「で、でも、そんなことをしたら、ミオさんが・・・・・・」
 今の今、『ミオさんが帰ることになっても』などと大口叩いておいて、すぐさまそんな心配が口から飛び出します。
「さっきも言ったけど、『わたしを残らせて』なんて、わたしは頼んでない。だから大丈夫。わたしを未来に帰す覚悟ができたなら、マスターに好きって、伝えるべき」
「ミ、ミオ……さん……」
 ミオさんは、優しい瞳を湛えたまま、私を見つめてきます。
「そ、そんな犠牲の仕方なんて……これはスキルじゃないんですよ!?ミオさんだって……マスターのことが好きだって……っあ」
「………」
 ミオさんは表情を変えず、意味深な眼差しをこちらに向けたまま。もしかして、もしかして。
 臆病な私を勇気づける為に……勝手に思い込んで諦めてしまった私を奮い立たせる為に、嘘をついてくれた?
「あ………あ………っ」
 全てが、符号する。
 不自然で突然だったミオさんの態度は、全て私の為に。
「わたし、しぐれに恩返しがしたかった。これで少しは、しぐれの役に立てた?」
「ありがとうございます……!ミオさん……!私、今すぐ伝えてきます!マスターに!」
「うん、頑張って」
 ミオさんがひらひらと手を振ってくれる。私は勢いよくお辞儀をし、マスターのもとへと駆け出します。頭の中で、何度も何度も、ミオさんにお礼を言いながら。

   ※  ※  ※

「頑張って……なんて。自分の気持ちを優先してないのは、わたしのほう」
 しぐれが部屋を飛び出してからも、わたしはしばらく手を振り続けた。そしてようやくその右手を下ろし、左手で包みこみ、まるで凍えるように、背中を丸めて目を閉じる。
「マスター..……ッ!」
 自分の気持ちよりも、しぐれの気持ちを優先した。その後悔が、今更になって波のように襲い掛かる。後悔することは判っていたのに、どうしてこの選択をしてしまったのだろう。しぐれにマスターのことを諦めさせたら、いつかマスターはわたしに振り向くかもしれないのに。
 マスター。
 好きだった。
 これは、恋という感情のはずだった。
 なのに、どうして応援してしまったのだろう。
「………どうして?……ぐすっ、わからない、教えて、マスタぁ……!」
 目の前の世界が涙で滲んでいく。その場で立っていられなくなり。両膝をつく。
気持ちと相反する行動をした理由も、拭っても拭っても溢れてくる涙の理由も、わたしにはどうしてもわからなかった。

   ※  ※  ※

「マスターッ!」
「ん?」
 車にもたれかかって星を眺めていたら、玄関扉が大きな音を立てて、しぐれが飛び出してきた。
 全速力で走ってきたしぐれは、僕の目の前で止まり、はぁはぁと深い呼吸を繰り返す。
「ど、どうしたんだしぐれ、大丈夫か?」
 今日の今までずっと決別状態だったことを忘れて、まるでいつものように話しかけてしまった。
「マスター、私……私……マスターにお伝えしたいことが……!」
『しぐれに、伝えたいことがあるんだ』
 いつかの言葉がふいにフラッシュバックされて、僕の身体は硬直する。
 また、期待した直後、手のひらを返されるのだろうか。もう、嫌だ。
「あの、えっと……えっと……」
「いや、しぐれ……」
 落ち着かない様子のしぐれに比べ、僕の心は冷え切っている。
 もう、いいよ。今度はどう裏切られるのか、わかったものではない。期待するだけ無駄だ。
「えっと、なにからお伝えすれば……」
 しぐれはしどろもどろになって、手がせわしなく動く。
「いや、いいよ言わなくて」
「ダメです!どうしても、お伝えしないと……」
「いいって……」
 ふてくされているわけでも、ひねくれているわけでもなく、純粋に、今は何も聞きたくなかった。
「お願いです、お話を聞いてください!」
 いや、違う。ふてくされているんだ。ひねくれているんだ。それっぽい仕草と言葉でもてあそんだ挙句僕を振った、しぐれのことを……恨んでいるんだ。
「やめ……やめてくれよ!これ以上期待するのも、裏切られるのも、辛すぎるんだ……」
「違います!」
「何が違うっていうんだ!」
「だって、だって私……ミオさんに……マスターをミオさんに取られたくない!!」
 ……でもその恨みは、この言葉で全て吹き飛んだ。



 車の中で、エンジンを温めながら待つ。
 しぐれは、「準備をしてきますので、少しだけお待ちください!」と言い残し、猛ダッシュで家に戻っていった。そろそろ5分程になる。
 腕時計を見ながら待っていると、しぐれはばたばたと慌てて戻ってきた。
「マスター!……お待たせしました」
 その姿は、白い無地のシャツに涼しげなスカート、それに夜だというのにカンカン帽を被って、まるであの旅行の最終日を再現したかのよう。いや、再現しているのだろう。
 僕は困惑して、「いや、大丈夫……」とつまらない言葉を返し、シフトレバーに力を込めた。
 さっきまでの路上でのやり取りが、頭の中で回り続ける。

……
…………
「……は?今、なんて……」
「さっき、私の部屋にミオさんがこられました」
 知ってる。僕が許可を出して差し向けたんだ。
「わたしがマスターからの告白をお断りした理由を訊かれましたので、お答えしたのですが……」
 ごくり、と喉が鳴ってしまう。しぐれに聞かれはしなかっただろうか。
「わたしがヒューマノイドでマスターが人間だからとか、色々お伝えしたんですけど、逃げてるだけだって言われてしまいました……あ、あは……」
「しぐれ……」
「でも確かに、そこに自分の意思はありませんでした。もっともらしい理由を並べるだけで、自分がどうしたいのかという意思が、ありませんでした」
「…………」
「結局わたしは、怖かっただけなのです。わたしが幸せを掴むことで、不幸になる人が居る。マスターがわたしに告白をしてくださって、手を伸ばせばその手に届くとわかっていましたけれど、その幸せと他人の不幸せを天秤にかけると、わたしは……」
 しぐれは優しい。優しいからこそ、自分のせいで他人を不幸にするのが耐えられないのだろう。よくあるヒューマノイドと人との恋物語は、残る側も先に逝く側も、それのどちらが先であれ不幸なものだ。
「ミオさんは、要らないならマスターをわたしに譲ってとおっしゃいました。しぐれは未来に帰っていい、とも」
「ミオが、そんな事を……?」
「で、でも!それは違うんです。あれはわたしを奮い立たせる為の嘘だったのです。挑発だったのです。わたしはそれに見事に乗ってしまい……」
 反省する様に肩を落としうなだれるしぐれ。ミオも、思い切った芝居をするものだ。
「それでなんだか……頭がかぁーっと熱くなって、思わず、マスターは渡しません!って……あはは、何、言ってるんでしょうね……わたしはもう、マスターのこと、こっ酷く振ってしまいましたのに……」
「そう、だった……のか」
 なんと声をかけてやればいいのか分からないけど、しぐれは自分のことや僕のことで沢山悩んだんだろうということはわかる。その結果を、受け止めようという心の余裕くらいはあった。
「なので、マスターはもうわたしのことお嫌いになってしまったでしょうが、わたしの気持ちを、伝えたいと思います。今度こそ、あの場所で」

 高速道路に乗ってしばらくしてから、しぐれは視線を落としたまま、膝の上で指を遊ばせている。期待をするのは怖いが、話を聞く限りだと好意的な話にも聞こえる。不安と諦念と、わずかな期待を胸に車を走らせ続ける。
「まだしばらくかかりそうですか?」
「え?うん、まだかかるね」
「そうですか……」
………………
…………
……
「そろそろ、着きそうですか?」
「いや、まだかかるよ」
 しぐれはしきりに到着時間を訪ねてくる。
(早く着いて……まだでしょうか……早く……早く……)
 とうわ言のように呟き続け、体はそわそわとせわしなく動く。

 そして、目的地に到着した。
 あの高台で僕がしぐれに告白して砕け散った、もう人生で二度と行くことはないだろうと思っていたこの場所。
 駐車場に車を停め、エンジンを切った瞬間、しぐれは弾けるように車から飛び出した。
「マスター!早くっ!」
 長旅から息つく暇もなく、僕はしぐれに手を引かれ、車外へ引っ張り出される。
「あ、ちょっ、待ってしぐれ」
「こっちです!マスター!」
 僕はしぐれに手を引かれながら、車のリモコンキーを取り出して辛うじてLOCKボタンを押す。電子音が鳴りハザードランプが点滅したのを確認すると、そのまましぐれに引っ張られるに任せた。
 信じられないほど強引にあの場所へとしぐれが導き、暗くて足元が悪い中を転ばないように必死についていく。
 そして、登り切ったその瞬間、殊更に強く手が引かれた。僕はバランスを崩し、しぐれに飛び込むように前のめりになる。すんでのところで衝突を回避し、すぐ手前でたたらを踏んだ。
「お……と、と。しぐれ……?」
 両手を繋ぎ、至近距離で視線も繋がる。背の低いしぐれが僕を見上げ、じっと見つめてくる。
「ここが、あの時の場所です。マスター、あの時のように、もう一度、お願いします」
 それは、イベントのやり直し。
 監督も演出もいない、ヒロインだけが望むリテイク。
「いや、そんなの……無理だよ……あんな辛い思いを、またするなんて……」
 正気の沙汰じゃない。君はどれだけ傷付けるのが好きなんだ?しぐれ……
「お願いします!もう一度、やり直したいんです!」
「やめてくれよ!もう怖いんだよ僕は!」
「私も勇気を出しますから!だからもう一度だけ、お願いしますマスター!」
「ッ……!」
 握った両手から、しぐれの熱い気持ちが伝わってくる。これが最後だと、嘘偽りないと、眼差しが語ってくる。
 でも……!それでも……!
「もう……無理だよ……!」
 身体が寒い。気温も体温も高いはずなのに、凍えてしまいそうなほど大げさに身体が震える。がちがちと奥歯が鳴る。この場から逃げたい。あんな絶望を再び繰り返すくらいなら、全てを放り投げて、この場から離れたい。あの時しぐれは、僕を受け入れてくれなかった。そのイメージが付いて離れない。なのに今のしぐれは、逃げようとする僕を赦してはくれない。逃げようとすればするほど、しぐれの握る手は強く、熱く、僕の心を溶かそうとしてくる。
「お願いします……!わたし、もう後悔したくないんです……!」
 そんなの、僕だって同じだ。後悔したくないから望まないんだ。それのなにがいけない?これまでにたくさん後悔してきた。勝算があると見込んで勇気を出しては手のひらを返される人生だった。今回もそうだった。後悔をしない為には、これ以上望まないことだ。わかってる。わかってるけど…………
「僕は……」
 後悔をしてでも、やっぱりしぐれが欲しくて。
「はい!」
「僕は、しぐれの、ことが……」
 望むのが怖いけど、やっぱりしぐれが大好きで。
 それに……
『わたし、ミオさんをマスターに取られたくない!』
 勇気を出したしぐれの一言が、僕にも勇気をくれたから。

「……………………好きだ」

「わたしも好きっ!!!!」

 瞬間、しぐれは合図を待っていたかのように、握っていた僕の両手を引き寄せ、かかとを上げて一気に身を寄せる。
 麦わら帽子が頭からはずれ、重力に負けて落ちていく。
 でも、それが地面に落ちるまで目で追うことはできない。だって、しぐれの唇が僕の唇へ重なるまでのほうを、見届けたかったから。
 味わう余裕もなく、ロマンチックに浸るひまもなく、ただ、真っ白な頭のまま、しぐれを受け入れた。
 永遠にも思えるキスが終わると、しぐれは握った両手を離し、今度は僕の頰に添える。
「やっと、言えました……こんなに、簡単だったんですね……」
 見つめ合う。一瞬たりとも視線を外すことなく、見つめ続ける。
「好きだ、しぐれ」
「ああもう、本当に好きですマスター」
 我慢できないとばかりに、今度は首に手を回し、首を傾け、深く深く、何度もキスをする。邪魔するものは何もなく、月明かりだけが僕らを優しく照らしてくれていた。

   ◇   ◇   ◇

「緊張、してますか?マスター」
「い、いや、そんなことはないぞ」
「私は……恥ずかしくて、どきどきして、今にも死んでしまいそうです」
「た、大変だ、それならすぐにベッドに横になって……ああいや、別にそういう意味じゃ……!」
「ふふ、もう」
 お互い子供ではないので、愛を確かめ合うことができたらくる場所はひとつ。
 今日の僕は一夜だけの城主。
 ベッドを目の前にしても僕らの体勢は、告白時とほぼ変わっておらず、しぐれが首に手をまわして少しだけかかとを上げる。
 どきどきして死んでしまいそうという割には、僕から1ミリも離れようとはしない。
「しぐれ、さっきからずっと……離れないね」
「そうですね、今日の私、ずっとテンションが変ですね。ふふ♪」
 ずるいくらいに可愛いしぐれの瞳が、僕を見上げ続ける。目の前でさらさらと揺れる、綺麗に揃えられたつやのある黒髪、おそらく世界一美しい髪だろう。自信をもって言える。
 触りたくて、手櫛で梳いてみる。しぐれは梳かれるに任せ、僕から視線を外さない。外したらもったいないと言わんばかりかのように。
「出逢ったときからずっと思ってたけど髪、綺麗だね」
「はい、自慢の髪ですよ。ウェーブがかった髪もいいですけど、わたしのはさらさらでしょう?さぁ、マスター……」
 珍しく自信にあふれた物言い。ミオへの対抗意識だろうか?
「そ、そうだね、いつも同じシャンプー使ってるはずなのに、どうしてこう……」
「マスター」
 優しい声で、制される。
「抱いて、欲しいです。あんまり我慢できません」
 望みを口に出すことをためらわなくなった、しぐれ。僕も覚悟を決めるか。
「っ、マスター……」
 覚悟を感じ取ったのか、しぐれは少しだけたじろぐ。
「初めてだから、痛かったり、嫌だったら言ってね」
「はい……でも、マスターには何されてもんんっ……!」
 一応、気遣いの一言は伝えたけれど、返事を待つことはできずに唇を塞いでしまった。だって、抱いてほしいなんて言われちゃったから。それに、痛かったとしても、きっと止まれないと思うから。
 そのキスは、儀式を始める合図。
 そこから先は、もう止まらない。
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 ベッドの隣に備え付けてあるデジタル時計を見ると、午前2時。
しぐれはバスローブに身を包み、隣で眠っている。事が終わってから軽く拭き取るだけでそのまま眠るというようなことは綺麗好きなしぐれが許してくれず、脱力感と共にシャワーを浴びたのだ。
 愛おしい気持ちに駆られ、眠っているしぐれの髪を撫でる。すると、彼女の目はくっきりと開いた。僕は思わず小さく「ごめん」と呟く。
「くすっ……起きていますよ」
 優しげな表情。
 その隣へと寄り添い、掛け布団を被る。その一連の流れをしぐれはずっと、頭の中で言葉を探すかのように僕のことを見続けた。
「……今でも」
「え?」
「今でも、まだ夢を見ているようです」
 結ばれたばかりの恋人としては、定番の台詞。だがしぐれのその言葉は、その場に酔っているからではない。
「明日になったらまた私の部屋で目が覚めて、いつもの1日が始まるんじゃないかって、思うんです」
「怖いんだね、大丈夫だよ、夢じゃない」
「いいえ、怖いわけではないですよ」
 しかし、定番のように小刻みに震えながら明日に怯えるような怖がり方をしているわけでもなかった。抱き寄せようと肩に載せた僕の手に、しぐれの温かい手が重なる。
「私は今まで、夜に眠るたび、何度も同じ夢を見てきました。マスターと、結ばれる夢」
「………………」
「今目が覚めて、このホテルではなく私の部屋の天井が見えたとしても、いつも通りの朝です。でも、今度ばかりは違うんですよね……」
「ああ、そうだね」
 文字通り、ずっと夢に見てきたことだったのか。そんなに前から、僕のことを。
「絶対に叶わない、夢だとわかっていたから……でしょうね。いざそんな夢が叶ってしまいますと、現実感がありませんね。ふふ」
 自嘲的に笑うしぐれ。夢というのはいつも、叶えてしまってから振り返ってみると、意外にこんなものかと思う事が多い。しかし、怯えていたのは僕の方だ。これまでの人生、ずっと掌を返されてきたから……どうせ今回も今後もそうだから……と勝手に諦め、しまいには差し出されるしぐれの手すらも振り払おうとした。それにひきかえ……
「しぐれは、強いよ。大事な一歩を、踏み出した」
「そんな、私は……ミオさんが背中を押してくれたからで……私の力では」
 しぐれは弱々し気に目を閉じ、ふるふると左右に首を振る。
「それがきっかけでもいいんだ。しぐれには、背中を押してくれる仲間がいる。その時に今の自分よりも少しだけ大きな勇気を出せたのなら、押してくれる仲間も含めてしぐれの強さなんだと、僕は思うよ」
「それなら、マスターは……」
 そう、だから僕は弱いんだ。背中を押してくれる人もいなければ、自ら切り拓く勇気も……
「マスターは、私よりずっとお強い方ですね」
 なのにしぐれは、真逆の評価を下した。
「だってマスターは、誰にも背中を押されずに、最初に私に好きと言って下さいました。私の背中を押してくれたのは、ミオさんだけではないですよ」
「しぐれ……」
 それならまぁ、そういうことでもいいか。克服したわけではないし、過去に苛まれているのは変わらないけれど。それでも、しぐれが憧れる男でいたい。
「わたし、強い人に憧れます。だから、マスターのこと、大好きです」
「僕もだ、しぐれ。大好きだ」
 合言葉のように確かめ合う。しぐれは、まだまだ不安なんだろう。
 ……いや、僕だってそうだ。口に出すことで安心するのなら、何度だって伝え合おう。
 しぐれは僕の懐にもぐりこんで寄り添う。そして消え入りそうな声で、「好きです」「マスター……」「好き……」とうわ言を呟く。それはまるで、一緒に暮らしていたこれまでに、口に出すことができなかった分を取り戻そうとするかのようだ。だから僕は等しくその数だけ、しぐれに「好きだよ」と返した。これまでしぐれに伝えられなかったこの気持ちを、取り戻すかのように。
そしていつか、この不安が払拭されるまで。
 夜は、更けていった。
…………
………
……


 朝になり、しぐれと共に家路につく。陽も高くなりつつある時刻に家へと着いた僕らは、そーっと扉を開け、そして玄関でずっと待機していたであろうミオと、バッチリ目を合わせることになるのだった。
「あ……えっと……ただいま、ミオ」
「…………おかえり、マスター」
 こちらのやましさがそうさせるのか、ミオの無表情な目はやけに威圧的に感じる。いや、自分が勝手にビビっているのだろう。ミオはいつも通りの応対をしているに過ぎない。
 僕とミオのやり取りを見てから、僕の背中に隠れていたしぐれが顔を出す。
「ミオさん……ただいま戻りました」
「しぐれも……おかえり」
 何も告げずに勝手に2人して家を出て翌朝帰りになったことを、これまた2人してしっかりと謝った。
 そして場所をリビングに移し、勇気を振り絞って僕はミオに告げた。しぐれと愛し合っていることを。しかしそれを聞いたミオは不思議な程に、「……そう」と簡素な返事をするのみ。拍子抜けすぎて逆に怖い。
「2人の仲が良いのは分かっていた。それに……わたしのこの気持ちは……」
 ミオは興味無さそうに言った。あまりにもいつも通りなので、逆に少し不安になってしまったが、元々無感情タイプなので、気にしても仕方ない。
「ありがとう。助かるよ!これからもよろしくな、ミオ」
「………………」
 感謝を告げると、ミオは再び口を開かなくなってしまった。とはいえ、この態度もいつも通りなので特に問題ない。
 それよりも、この後はしぐれがミオに話があるみたいなので、2人っきりにさせてやりたい。早々に話を切り上げて、僕はリビングを後にした。

   ※  ※  ※

 私がミオさんのいるリビングに入ると、マスターと入れ違いになりました。
ミオさんには、たくさん報告するべきことがあります。マスターと結ばれることができたこと、それはミオさんが背中を押してくれたからで、ミオさんには感謝してもし足りないこと。さらに、マスターと、マスターと念願の!……いえ、これは言えないですね、恥ずかしすぎます……。
 赤くなってしまった両頬をさすり、ミオさんに声をかけます。
「ミオさんっ、あの、私、マスターから聞かれたかもしれないですが……」
「マスター、これからもよろしくって言ってた」
「あっ、ふふふ、やっぱり聞かれましたか。その、恥ずかしいんですけど、昨日の夜にマスターから熱烈な告白を……」
「これからもよろしくって言ってた。わたしにはわからない」
 ミオさんの目が笑っていません。浮かれていた私は一気に冷や水をかけられ、ミオさんの言葉の意味を探ります。
「あの、それってどういう……?」
「しぐれとマスターが恋仲になったのなら、わたしは未来に帰らなきゃならない。なのにマスターは『これからもよろしく』って言った。どうして?」
「…………」
 私は返事ができなくなり、コーヒーテーブルを見つめることしかできません。
「しぐれ、もしかしてマスターに伝えてない?」
「はい……」
「わたしが未来に帰ることをわかった上でしぐれと結ばれたのなら構わない。でもさっき話したマスターは、そんな感じではなかった」
「…………」
 ミオさんが未来に帰らなければいけなくなることを先にマスターへ伝えてしまうと、マスターは私と結ばれることを諦めてしまう可能性がありました。だから言えませんでした。
 自信がなかったからです。ミオさんを帰してしまってでも私と結ばれることを選ぶに違いないと思える程の自信が。
 どうせ黙っていてもいつかは判ってしまうことですし、早めに伝えるべきことなのは明白でした。なのに私は……本当に怖がりで臆病で卑怯で、自分が嫌いになりそうです。
「大丈夫なの?マスターに黙ったままで」
「大丈夫じゃ、ないです……私、怖くて、言い出せなくて……」
「しぐれが怖くても、規約は規約。近いうちにわたしは帰ることになるわ」
 いつにも増して冷たく感じるミオさんの言葉。私はミオさんを怒らせてしまいました。私のせいで。
「…………」
「黙っていたらわからない。しぐれはどうするの?」
「っ、ご、ごめんなさい……」
「……?どうして私に謝るの?」
「えっ、と、ミオさんにとっては、せっかくマスターのもとにきて、ようやく慣れてきたというところでしょうに、私のせいで追い出されてしまうようなものですから、さぞお怒りなのでしょうと……」
「マスターの命令を聞くのは、わたしの使命。怒るとかは、よくわからない。それよりも、しぐれのことが心配」
「えっ……」
「わたしはしぐれとマスターが仲違いしないようにするべきと結論付けただけ。気持ちとかはよくわからない。だから怒ってるように見えたらごめんね。しぐれ」
 てっきり、私のせいでここを去ることになってしまったので嫌われたのかと思っていました。嫌われてもおかしくありませんでした。それなのにミオさんは、あの時に背中を押してくれただけでなく、今ここでも、私の心配をしてくれます。
「諦めた分、しぐれには幸せになってもらわないと困る」
「え、それって……?」
「なんでもない。それよりどうするの?ううん、どうしたいの?しぐれは」
 抽象的な質問に、私は一瞬首を傾げますが、すぐに気付きました。
 覚悟を問うているんだろう、と。
「何を望んで、何を諦めるの?全てを手に入れることはできない」
 強く、ならなきゃ。
 今こそ私は、自分の意思を貫く。
 鉄の意思にだって負けない、私の恋心を。
「マスターは、もう、私のものです。なので……未来へ、か、帰って下さいっ!」
 言いたくなかった。こんな言葉。
 ミオさんとも、ずっと居たかった。だって、ずっと一緒にいて私を助けてくれた人だから!
 でも、私はもう逃げてはいけない。一番大切な人を悲しませない為に、その次に大切な人を傷つけなければいけないから。
「ッ!」
 叫んで顔を上げた瞬間、私の視界は急激に歪みます。左頬に強烈な熱さを感じて思わず頬を押さえると、ようやく私はミオさんに頬を打たれたんだと気付きました。その直後、そのミオさんに強く抱きしめられ……そして、
「よく言えた。あなたが大好き。だから、恨むわ」
 そのお顔は、言葉と違って全然恨みがましくなくて、むしろ清々しい笑顔そのものでした。



第三章

「……というのが、わたしとミオさんがお話した最後でした」
「……なるほど。ありがとう、話してくれて」
 初夏の涼しかった日々は過ぎ、季節はとうに夏。色々なことがあった、リビング。その二人掛けソファで落ち着く僕としぐれは、あの激動の5月について振り返ることができるくらいには、心の余裕ができた。
 たった3か月だったけれど、間違いなく共に過ごし家族の一員だったミオ。今でも罪悪感がないとは言えないけれど、それ以上に僕は幸せだった。だって、これまではなにか生活のサポートを受けることでしか、しぐれに近づくことができなかったのに、今はこうして僕の腕に抱きついて、頭を預けてくれている。
「マスターもあの後、ミオさんとお話されたんですよね?」
「うん、そうだね」
「どんなことをお話されたんですか?」
「どうって別に……大したことは話してないよ」
「そう……ですか?」
「うん」
「…………」
 なぜかそこでしぐれが黙り、奇妙な間ができた。
「え、どうしたの?しぐれ」
「なんだか平然としたお顔をされていますっ」
 まんまるな瞳が、キスをしそうなほどに近い。あまりの綺麗さにたじろいだ。
「へ、平然としていたらおかしい、かな」
「んー、何か隠されてます?」
「しぐれが近くてびっくりしただけだよ……!」
 ただでさえ人形のように美しいしぐれなのに、そんなに近くに顔を寄せられるとまともに見つめ返すことができない。
「ご、ごめんなさい。急に近づきすぎました」
 そう言ってしぐれは離れる。
「いやぁ、別にいいさ。あっはっは……じゃあ僕はそろそろお昼ご飯の用意を……」
 ……と言って立ち上がろうとしたけれど、しぐれの腕だけが離れない。
「ミオさんとどんなことをお話されたんですか?」
 同じ質問を再び受ける。ただし今度は意味合いが違うだろう。逃げられない。
「ミオさんは私とあんなお話をした直後に、一直線にマスターのいらっしゃる書斎へ向かわれました。その後にミオさんはそのまま未来へ帰られています。大したことはないお話で終わるはずがないと思います……」
「……」
 Right、その通り。よく気付いたね。でも言うわけにはいかないんだ。言ったらきっと……
「言ったらしぐれ、怒るから……」
「もう怒っていますっ」
 珍しくむっとした顔をするしぐれ。大丈夫、まだ怒っていない。しぐれは、怒ったら笑顔になるからな。だから怖いんだよ。
「言っても怒らないって誓うなら話してもいいよ」
「ですから、もう怒っています」
 あ、やばい、笑顔になってきた。
「わ、わかった話すから」
 そうして僕は洗いざらい白状したんだ。あの時、ミオが僕に何を話して、そして『何をした』かを。
………
……


「えーーーーーーー!!!き、き、キスですか……?」
「はい」
 しぐれの素っ頓狂な声がリビングに響き渡る。当然だろう。なにせミオは去り際にキスをしてきたのだから。
 突然僕の部屋に入ってきた彼女は、未来に帰らなければならないなどと言いだした。
 当然僕はその理由を訊き、そしてミオは答えた。マスターとしぐれが恋仲になったからだ、と。
 その時僕は何か遠慮をしているのだろうかと思ったが、どうやらそういう規約が存在しているらしい。約款にも書いてあると言われたが、細かく読んだことはないので知らなかった。
 自分のせいだとわかり急に申し訳なくなった僕は謝罪しようかと思ったが、ミオがそれを制した。これは事前にしぐれとも話してることだから気にしないでいい、と。そして黙っていたしぐれを責めないでほしい、とも。
 納得をするほどの心の余裕は無かったが、ミオはすぐにでも帰ると言う。せめて送別会のようなものくらいはしないかと提案したが、しんみりした雰囲気になるのは嫌だからと頑なに断られた。
 せめて何かお礼や力になれる事はないかと食い下がると、ミオはしばらく考えるようなそぶりを見せ、扉を指差して「あ、しぐれが来た」と言った。それに釣られて僕の意識が扉へと向けられているうちに……
「ミオさんが、キスを……」
 しぐれが放心したように大きく息を吐く。
「ミオにキスをされたことの驚きもそうだし、しぐれのことが頭をよぎった。それでも、突き飛ばしたりは出来なかった。ごめん。だって……」
「笑っていた、でしょう?」
「そう。笑ってた」
 ミオは、満足したような笑顔を見せ、ご馳走さま、と告げて部屋を出た。
「それが、僕とミオが話した内容のすべ……んんっ!」
 全てを話し、赦しを得ようと顔を上げたらしぐれに頰を掴まれ唇を押し付けられた。
「んっ……ん……」
「っは!ど、どうしたの急に!?」
「ん……ぷぁ、マスターの唇がミオさんに奪われました……!」
 まるで世界が破滅するかのような顔をしている。
「ずいぶん前の話だって!それに、その後しぐれとたくさんキスしたじゃないか」
「はぅぅ、いえ、それとこれとは全然、まったくもって別の話です!」
 顔を真っ赤にしながらそう言って、抱きしめていたみかんぬいぐるみ(大)で僕を叩く。僕が買ってあげたやつだ。まったくもって別の話には思えないけど、しぐれが言うならそうなんだろう。しぐれの中ではな。
「わかったよ、しぐれ。たくさん、キスをしよう」
「んっ……」
 再び唇が重なる。何度でも。
 想い出を重ねながら過ぎ去る、日々の繰り返しのように、何度でも、何度でも。
 だけどあまりにキスを重ねると、今度は親愛の証程度では済まない雰囲気になってくる。お互いに口を半分開き、粘膜同士を重ね合わせるキス。頭の中が痺れてしまうほどに、しぐれとのキスは気持ちがいい。先に舌を相手に押し付けるのはどちらか、互いに牽制しながら、確かめ合いながらキスを深めていく。唇が離れると、どちらともわからない糸が一本引いた。2人で引き伸ばしながらそれを目で追い、糸は真ん中で小さな玉を作り、落ちた。しぐれの目を見る。次のキスは舌が絡むだろう。そうしたらもう止まらない。
「マスター……」
「しぐれ」
 所在なさげに宙に浮く、小さくて可愛らしいしぐれの手に僕の手を合わせ、指を絡める。ゆっくりとお姫様を扱うように引き寄せた。
「ま、マスター……」
 肩に手を入れて、しぐれがいつも着ている服の一番上、薄手の白い羽織りをはだけさせると、しぐれは困ったような表情を浮かべた。
「いけません、マスター……」
 口だけの弱々しい制止を無視し、黒いワンピースの腰に結ばれた碧色のリボンに手をかける。抵抗のつもりなのか、リボンを掴んだ腕にそっと手を添えられ、目で訴えかける。その瞳は潤んでいて、かえって強烈に僕の心を刺激した。
 衝動のままに濡れた唇を貪ると、しぐれはキスとキスの間で息継ぎをして、僕の胸に手を押し当て、突き離そうとする。その力はあまりにも弱々しくて、『一応淑女として拒否の形は示しましたよ』感を出しているだけかにみえた。
「んっ……!ふぁ……ま、まだおひる……ん……ですよ……んむ……!」
ついばむようなキスを繰り返し、さり気なくリボンを軽く引っ張ると、結び目がするりと解ける。
「別にお昼でも関係ないさ……」
「えっと……あ、ミオさんが来ましたよ……?」
「ミオの真似?はは、その手には乗らないよ」
 可愛らしい嘘に愛おしさが湧く。こうなれば恥ずかしさも吹き飛んでしまうほどに愛を交わそう。
「も、もう……マスター……」
「たとえミオが戻ってきたとしても、もう気にしないさ。止まれない。愛してる、しぐれ」
「んっ……む……ふぅ……ちゅ……」
 観念したのかしぐれは僕の首に両手を回し、背伸びをしてキスを受け入れる。
 ひとしきり舌を絡ませ合うと、嬉しそうに笑う。
「ふふ、もぅ……では、た~くさん愛してくださいね、マスター♪」
「そう、わたしは気にしなくていい」
「んぶっ!!」
気が付けばすぐそばにミオがいた!な、な、なんで!?
「み、み、みミオさん!?」
「……どうしたの?そんなに驚いて」
「ど、ど、どうしたのって、こ、こ、こっちのセリフだよ!どうして……」
「マスターにキスして勢いのまま未来に帰っちゃったから、忘れ物をとりに来た。邪魔はしないから続けてかまわない」
「な、な、なんのことでしょうか!?」
 今更ながらすごい勢いで立ち上がり、僕から離れるしぐれ。もう現行犯だと思うが……
「……『た~くさん愛してくださいね♪』」
 ミオが抑揚のない声でまったく似ていないしぐれの声真似をすると、しぐれは人間とは思えない早さでみかんぬいぐるみグレートを彼女に向かって投げつける。あれも僕が買ってあげたやつだった。見えない速度で投げつけられたそれをミオは片手だけで事もなげに払いのける。そういえば2人とも人間じゃなかった。

   ◇   ◇   ◇


その日は朝から慌しかった。
「テントに、チェアに、テーブル、クロス、タープ、コット、シュラフ……」
事前にリストアップしたアウトドア用品を、一つ一つ確認する。
「マスター、ランタンが入ったカバンと、スモーク用品が入ったカバンです。あとゴミ袋も♪」
しぐれが両手いっぱいに荷物を持って階段を降りてくる。
「ありがとう、そこにまとめておいてね」
「マスター、お湯が沸いてるようですが大丈夫ですか?」
「あっ……!ありがとう!」
しぐれに指摘を受け大急ぎで台所に戻り、下準備にとりかかる。
朝早くに起きて、2人で準備を進めても結局9時近くになってしまった。
何日も前から必要な道具は買い揃えておいたけれど、こんなに沢山の物が必要になるとは正直思わなかった。
現地で余計な作業をしなくてもいいように、下準備できる具材はすべて整えておく。
「マスター、後どれを車に積めばいいですか?」
肉や野菜の下処理をしている最中に後ろから声をかけられ振り返ると、後で車に積もうと思って廊下にまとめておいた荷物が全て消えていた。
「もう全部車に積んでくれたのか……ありがとう、しぐれ。もう大丈夫だよ」
「はい!では、保冷剤を取り出しておきますね♪」
指示を受けずとも、しぐれは冷凍庫から保冷剤を取り出してクーラーボックスに詰める。本当に働き者だ。そして次はジュース、ビールを取り出して丁寧につめていった。
今日は2人で1泊2日のキャンプ。町はずれの地元民しか使わない市営のキャンプ場を予約してある。
久々のおでかけ。ずっと夢だったしぐれと2人の楽しい一日の予感に、心が躍った。

「私、キャンプって初めてです♪楽しみです……」
助手席で目を輝かせるしぐれの本日の装いは、いかにもキャンプにぴったりのサマーバケーションラッピング。薄手のTシャツに黒いレギンスとトレッキング用のショートパンツ。しぐれはアウトドアスタイルもよく似合う。
「実をいうとね、僕も初めてなんだ。自分でキャンプをやるのは」
人が主催するキャンプには参加したことがあるが、自分でキャンプをするのは初めてだった。
「はい、知っていますよ♪今日の為にテントも買ってきましたから」
キャンプに行こうと決めてからは、予定の日までにいろいろなものを買った。2人が入れるテントに、テーブルチェアタープシュラフとかなりの出費だ。家にあって代用できそうなものはなるべく代用したが、それでもかなり初期投資したと思う。まぁ、今後何度もすることになるから、大丈夫だろう。
「あっ!ほら、着きますよ!」
程なくして見えてきたオートキャンプ場は、すでに色とりどりのテントが張られていた。やはり少し出遅れたのかもしれない。これからはもう少し早くいかないとな、と早速の反省点だった。

テントとタープを立てる場所を決め、まずはタープを立てる。強い日差しから荷物を守るため、立てたタープの下に避難させて、その次にテントを張った。
一度説明書を読んで確認してはいたが、実際に張るのは初めて難しい。
2人で手分けして作業をしていても、かなり時間がかかってしまった。
「はぁっ、暑い」
「暑いですねマスター……水分補給は大丈夫ですか?」
「あぁ、欲しいね。お願い」
「はい♪」
しぐれがタープ下のクーラーボックスから飲み物を取り出す。
「こんなに暑いから、もう今からビールを飲んでしまいたいな。ビール飲みながらテント組んだら、効率が上がる気がする」
「なにか言いましたか?」
笑顔でお茶を渡してくるしぐれ。今の絶対聞こえてるはずなのに。
「いや、なんでもないっすね」
「まだまだ先は長いんですから……テントが終わったら、バーベキューの準備ですね。頼りにしてますよ、マスター♪」
頼りに、か。男の扱い方がうまいことで。
「……よし、やるか!」
「はいっ♪」
お茶のペットボトルのキャップを勢いよく締め、気合を入れた。

そしてテントを張り終わり、テーブルと椅子を用意する。僕がバーベキューコンロ用の炭に火が中々点かず悪戦苦闘している代わりにしぐれは食材の準備をしてくれていた。
なんとか炭に火が付くと、2人で食材を焼いていく。青空の下でバーベキューという楽しさと空腹に、はやる気持ちが抑えられない。
お肉が焼けてきたところで、今日のクライマックスが訪れる。
「ふっふっふ、しぐれ、よろしいかな?」
「くすっ、はい♪」
2人が持つビール缶から、小気味いい音が鳴る。
「まずは、乾杯!」
「乾杯っ」
待ちに待った、この瞬間。炎天下の作業を終えて火照りきった身体に、勢いよく冷たいビールが染み込んでいく。最初の1本の最初の一口目。苦しくなるまでごくり、ごくりと嚥下を続ける。喉を鳴らすたびに感じる、『生き返る』という気持ち。極上の快感を終えてしまいたくない。そして苦しいほどに飲んだ頃合で缶から口を離し、口を閉じてじわりと襲いくる炭酸の刺激を噛みしめる。
「………っ……はぁっ!!」
たまらない。嗚呼、この一杯と、その他もろもろの為に生きてるなぁ。
「あんまり無理しないでくださいね?」
しぐれがいつものように気遣いをしてくれる。
頷きながら、頭の中では別のことを考えていた。以前であれば、「無理しないでくださいね?」は、「無理はなさらないでくださいね?」といったようなお堅い言葉遣いだった。まるで会社の重役と話すかのような、よそよそしく、他人行儀な敬語だった。
しかし今は、丁寧語なのは変わらないが少しだけ力を抜いた話し方で寄り添ってくれる。心の距離が近づいているのだろうかと少し嬉しくなった。
「ありがとう、しぐれ」
「どうしたんですか?そんな改まって」
缶を両手で持ちながら、不思議そうに見上げてくる。
「しぐれに出会えて、よかった」
嬉しかったこと。悲しかったこと。3年前に出会ったあの日のことを思い出してしまい、万感の想いを込めて、しぐれの頭をなでる。
「えっ、そ、そんな、大げさな……わたし、飲みすぎないように言っただけですから……」
「うん、そうだね」
かまわず、撫で続けた。
「うぅ、ですから~、もぅ……♪」
照れる声に優しさが篭り、観念したように頭を僕に向ける。しばらく撫でられるに任せていたしぐれは、急にハッと思いついたように顔を上げ、僕を見つめる。
「…………」
「え、な、なに?」
「私も、マスターと出逢えてよかったです。ナデナデ♪」
なんと、しぐれに頭を撫でられてしまった。驚いて固まってしまう。
「うぁ、えっと……しぐれ」
「ふふっふふふっ、可愛い」
「いや、男にそんな、可愛いなんて……」
「だって、可愛いんです♪」
「なんだか、な」
今度は僕が観念して明後日の方を向き、しぶしぶながらしぐれのなでなでを受け入れる。そんな姿さえ可愛いと思われてしまったのか、しぐれはご機嫌で僕の頭を撫で続けた。でも、そうだな、悪い気はしない。構わず僕も撫で返した。
サラサラとした髪を撫で合い、照れた表情を眺め合う至福の時。2人して、もう周りの目など少しも気にならなかった。

夕暮れになると、日帰りのバーベキュー利用客の大半は帰り、残るは僕らテント泊客がまばらにいるだけ。
太陽は惜しむように淡い光を残して山の向こうへと隠れ、オレンジから紺色へと空色が移ろう、僕の好きな時間……なのはいつもの僕の話で、今日の僕は午後から酔っ払い。
「眠いな」
「えっ、マスター……あの、夜からがキャンプの本番って言っていたような……?」
「言ったねぇ」
「焚火を挟んで語らう時間こそがキャンプなんだって……」
「言ったね」
「ふふ、おねむなんですね♪」
うーむ、なんとなく癪ではある。でも眠気には勝てない。
「ごめん、ちょっとテントで仮眠したい。しぐれは眠くないの……?」
「私は……そうですね、本当は私も」
「じゃあ一緒に。さぁ」
僕は立ち上がり、しぐれに手を伸ばす。
しぐれは微かに笑みを浮かべ僕の手を取って、でも手に力を込めずに立ち上がった。
しぐれの手を引いたまま歩き、テントのジッパーを開けて中をのぞくと、
「思ったより……狭いな」
そう、『1~2人用』というテントは、基本的には1人用なのである。僕はそれを知らずに買ったのだった。ちなみに5~6人用のテントなら荷物を考えると実質大人3人が限界だ。
「確かに、狭いですね……二人用なのにシュラフがひとつしか広げられませんね」
「仕方ない。ひとつのシュラフを敷布団にして2人で寝よう」
そうして極々近い距離で僕らは横になる。
「ふぅ……」
ガサゴソと、身体を動かして位置を調整しながらしぐれと一緒にテントの天頂を見上げる。
そして目を閉じて、夜中に焚火を挟み静かに語らう時間の為に仮眠を……
仮眠を……
「眠れないな」
「私もです」
しぐれもだった。だって……
「マスターが……こんなに近くにいますから……」
と言って、こちらに顔を向けた。僕もしぐれを見つめる。暗くなったテントの中でも、それは判った。
「しぐれ……」
しぐれの髪を撫でる。しぐれはくすぐったそうに身じろぎをして、そして僕に寄り添ってきた。僕の顔を覗き込むように見上げてきたので、僕はゆっくりと唇を寄せた。
「ん……」
情熱的というよりは、柔らかで、穏やかなキス。唇と唇が重なっただけの、キス。
僅かに離れては重なり、そしてまたわずかに離れては重ねる。気分になってきたところでしぐれが僕の胸を押して、
「今日は……だめ、ですよ?」
と囁く。当然、ここは外だ。
「そう、だよな」
「ふふ、またミオさんに登場してもらいますか?」
「いや、あれはびっくりするから勘弁してくれ……」
「ふふっ、ふふっ♪」
「しぐれはさ」
「はいっ♪」
「後悔、しているか?」
「してません」
「……」
その即答ぶりに、テンションの急降下ぶりに、僕の方が固まってしまった。
一見、何を指しているのか判らないはずの質問に対し、しぐれは即座に答えた。
それはつまり、僕が何のことで質問しようとしているのかということだけじゃなくて、僕が何を考えていたのかということすら、しぐれには筒抜けだったわけで。
「……いえ、していないと言ったら、嘘になりますね。ミオさんは大切な人でした。でも……」
そしてしぐれも、同じ事を考えていたわけで。
「でも……そうですね……」
しぐれは天頂を見上げながら逡巡し、見つけた言葉を言うべきかどうか悩むように黙り込み、そしてゆっくりと口を開いた。
「両方は、手に入りませんでしたから」
しぐれは、僕と恋仲になった上でミオもそのままという最良の結果は手に入らないということを理解していた。
しぐれはどちらかしか手に入らないそれらを天秤にかけ、悩み、苦しみ、そして、僕を選んだ。その選択は、僕にとって嬉しくもあり、そして悲しくもあった。
「外の風に当たらないか?」
僕は提案し、しぐれも頷いた。
外に出ると、丸い月が煌々と輝いていた。そのおかげで街灯のないキャンプ場でも少し明るい。
僕らは黙ったまま2つをチェアを並べて座り込んだ。
どちらともなく手を握り、そしてしぐれは僕の肩に頭を預けてくる。
その表情を覗き込むと、遠くを見ているような、なにも見ていないような。きっと様々な思いが、交錯しているのだろう。
しぐれはもう、泣きはしない。だからしばらくこうしていよう。
大丈夫、夜は長いから。

  ◇  ◇  ◇

 ある日の陽射しが照りつける正午。
 今日はしぐれと外食に出ていた。
 本来は僕が家事をする日だが、暑くて気分が乗らず、とはいえ、それならば私がやりますと言って聞かないしぐれを休ませる為に、外で食べることを提案した。
 たまにはいいですねとしぐれは喜んでくれる。それだけで、既に良い1日が確定していた。
 地元の馴染み深い定食屋ののれんをくぐると、割烹着とエプロンの似合う老夫婦に出迎えられ、混んでいるのか二階に案内される。今日は一段と客が多いらしい。
注文を伝えて待っていると、明らかに定食を持ってくるには早いタイミングでおばちゃんが上がってくる。
「ごめんね、相席でもいーい?」
 どうやら席がすべて埋まってしまっているようだ。しぐれはこちらを見つめ、優しく頷いてはっきりと言った。
「大丈夫ですよ」
 感謝を示して階段を降りるおばちゃんの代わりに上がってきたのは地元の爺さん。清水さんとは別の人だ。
「相席すまないね。お?今日はえらい別嬪さんを連れてるじゃないか」
「はは、まぁ」
「ふふ、ありがとうございます」
 しぐれも笑顔で受け答えをする。
「嬢ちゃん、ちゃんと手綱握っとくんだよ?コイツ顔だけは良いからよ、モテちまうんだよ」
 それを聞いたしぐれは少しだけ驚いた顔をしてから意味ありげな一瞥を僕にくれて、それから、
「やっぱりそうですか。でも大丈夫ですよ、ちゃんと握ってますから」
と、言ってのけた。
「はーははは!やるじゃないか嬢ちゃん!」
 和気藹々とした雰囲気で差し障りのない会話に努め、食事を終えて外に出る。
「ごめんな、相席になっちゃって。あの爺さん、ものすごいお喋りが好きでさ」
「いえいえ、楽しかったですよ。それに私、いつまでも怯えてはいられないので……」
 前を向いてそう言うしぐれは、いつもより少しだけ凛々しい顔つきをしているように見えた。
「そう、なの?」
「はい、一刻でも早く強くなって、マスターの隣にいるのに相応しい人になりたいんですっ」
「そっか……その気持ちはとても嬉しい。でも、強さというのは、そこまで無理して求めていくものでもないと、思うんだ。僕はね」
「え……?」
 僕は歩きながら空を見上げる。少々くさい台詞を言うには、ぴったりな空だろう。
「人にはいつか必ず、乗り越えなければいけない困難がくる」
「だったら……」
 しぐれがかぶせようとするが、僕はそれを手で制止した。
「だったら、その時にその困難を乗り越える分だけ、強くなればいい。それで、充分なんだ」
「それで……いいんですか?」
「うん。じゃないと、日々がきっと楽しくない。いつくるかわからない事のために、ずっと怯えて、苦しみ続ける必要なんか、ないんだ。しぐれ」
「楽しんでも、いいんですか……?」
「ああ、もちろんだよ!」
一転して弱々し気な顔をしたしぐれは、風に揺れる髪を耳の後ろにかけ、小さく呟く。
「ダメなんだと思ってました……マスターに甘えてばかりで、意志が弱くて、幸せを受け取ることすら怖かった私は……あなたのそばに居る資格がないって、思ってて……」
いつのまにか足を止めていたしぐれに合わせ、僕も立ち止まりしぐれのそばに寄り添う。資格なんて、そんなもの要るものか。無くても傍にいたいからいるんだ。そう伝えたいけれど、今は聞く側に回る。
「情けでも憐れみでも私を愛してくださるなら、それでも良かったです。でも本当は、助け合えるパートナーでいたいって思って……だから急いでいました。あなたの隣に立てる、女にならないとって」
 自分より他人の意思を優先することで、軋轢を避けて生きてきた彼女が、今急速に強くなろうとしている。僕の隣に居たいというその一心で。
それなら僕は、彼女自身が否定する今を、あえて肯定していきたい。
だって彼女は、僕にとっては眩しくて、憧れて、ずっと隣に立ちたい、そう思える存在なんだから!

「一緒に強くなろう、しぐれ。少しずつでいいから」

「はいっ♪」

僕たちは手伸ばし、握り合った。少しずつ、強く。

fin.

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