悪の教典の感想と表では書けない価値観



 悪の教典を読みました。2010年の作品らしいです。
 久々に小説というものを読みました。とても面白いものでした。

 僕は駅メモの2次創作SSをたくさん書いておきながら、小説というものを読んだことがほぼありませんでした。最後に読んだのは、高校生の頃にまで遡ります。好きなゲームの原作であるパラサイト・イヴ、あとは山田悠介のリアル鬼ごっこ、これくらいしか読んだことありませんでした。小説を読む人からすると信じられないことかと思いますが、本当に小説を読まない人間でした。
 当時リアル鬼ごっこを読んで面白いなと思ったので、それを小説好きの友達に報告したら、
「俺はたくさん小説を読んできたが、山田悠介は小説と呼びたくない」
などと言われたので、ショックを受けたのを覚えています。そうなのか、面白いと感じたのにな。
 以降、小説は自分の人生とは関係のないものとして遠ざけたまま過ごします。ノベルゲームはたくさんやってきましたが、小説だけはずっと苦手意識がありました。いつか電車旅行中に、長旅のお供にと小さくて薄い文庫本の小説を買って挑戦してみたこともありましたが、最後まで読めませんでした。
 最後まで読むという経験を積みたいと思い、叙述トリック短編集みたいなやつを買ったこともありましたが、結局これも最後まで読むことはありませんでした。というか全然面白くありませんでした。お金返して

 とまぁ、そんな感じでこのまま一生小説を読まずに過ごすのだろうと思っていましたが、とあるきっかけで悪の教典を読むことになり、読んでみたら即ハマりました。元々小説が苦手で、ページの厚みで言うと5mmくらい読んだらもう頭が爆発しそうなくらい疲れる僕が、頭を爆発させながら1日2cmくらいずつ読みました。限界が来て本から目を離すと、視界が変になっています。なるほど、これは目に悪いわ。でもとても面白かったので、これを書いた貴志祐介氏の本は他のも読んでみたいと思います。

 さて悪の教典ですが、主人公のハスミンは極度のサイコパスとして描かれています。共感性が無く、動物や人間を殺すことになんの躊躇いもないという特性をもっています。隠したことがバレないようにリスクになる人間を殺す、その殺人がバレそうになったらその人も殺す、殺しすぎて不自然になったら死体の山を築いてそこに隠すとめちゃくちゃなことをします。最終的に大量殺人をすることになるんですが、その獲物は散弾銃です。僕は狩猟免許を持っているので、これまで至近距離で散弾銃が発砲されるのを観てきましたが、開けた屋外の山でも発砲音というものはめっっっっちゃくちゃデカイです。作中みたいに、廊下でとか、女子トイレの中でみたいなあんな狭い場所であんなものを撃ったら、とんでもないことになると思います。あれはただの音ではありません。衝撃が直接襲ってくる感じです。弾の中にある火薬の爆発エネルギーの、8割くらいが音に使われてるんじゃないか??ってくらい音がデカいです。変に本物の銃声を知っているだけに、殺戮シーンの迫力は半端じゃなかったですね。
 あとハスミンは、他者に共感できないサイコパスであるがゆえにそのままでは日常会話に齟齬が出てしまうわけですが、共感できない為に起き得る社会上の不都合を、擬似的に共感らしきものをシミュレーションすることで攻略するという描写がたくさんあります。それ自体はサイコパスが周りの人心を掌握する為に必要な擬態ですが、それは実質的に本物の共感と何も違わないだろうと思いました。僕もそれをやっているからです。

 僕は狩猟免許を持っていて、猪を捌いたこともあれば、生きているタヌキにナイフを突き立てましたし食べました。最初こそ命を奪うという行為に手が震えましたが、もう次は震えないと思います。しかし、僕は他者への共感力は多分人並みにあるのではないかと思いますし、自身をサイコパスだとは思っていません。だからハスミンみたいに自分にとって障害だからといって人を刺す気にはならないです。ならないはずです。可能かと言われたら可能かもしれないですけど、やらないはずです。でもそれは人間に対してブレーキがかかるだけで、動物に対してはブレーキをかけることは恐らくありません。
 こういう『倫理観の逸脱自慢』みたいなのは若干厨二感があって恥ずかしい気もするのですが、でも良いでしょう。狩猟する人のメンタルには大事なことです。
 初めて四足歩行動物の命を奪った時は、ちゃんとできるのか不安でしたけど、「だ、ダメだ、俺には出来ない!」みたいなのはありませんでした。普通にぷっつりとナイフが心臓に滑り込んでいきました。先輩猟師を見ていると、大きな猪や鹿にも躊躇なく近づいて刃渡りの長い剣鉈を使って一撃で心臓を破壊します。早くああなりたいものです。

 そんな僕が、擬似的にシミュレーションしている共感らしきものがあります。それは『ペットを家族だと思うこと』です。
 これは多分僕がペットを飼わない人間だからだろうと思うのですが、ペットはどこまで心を通わせてもペットであり、どうしたって家族とは思えないのです。YouTubeで動画とか見てても、猫がダイニングテーブルに乗った食事皿を跨ぎながら歩くのを見ると不潔だと感じますし、今しがた口にしていたスプーンで猫の口へ分け与えてるの見ると正直気持ち悪いと思ってしまいます。あれこそ、ペットを家族だと本気で思っていないとできないことだと思うので、「ああ、本当に家族だと思ってるんだな」と奇怪なものを見る目で動画を観ています。僕はどちらかというと猫派なので猫の事はめちゃくちゃ可愛いと思っていますが、飼ってるところを想像しても家族だなんて絶対思えないでしょう。
 猫が脱走して行方不明になったならそれは我が家が嫌だったのだろうと思ってすぐ諦めるでしょうし、犬が車に轢かれたとしても「犬は犬ですから」って運転者に言うと思います。だから猫が行方不明になってるのを探してるのを見ると「出たくて出たんだろうからやめてやれよ……」と思いますし、飼い犬が車に轢かれて運転手に謝罪を求めてる話を聞いても、「全て犬の管理しっかりしていなかった飼い主の責任で、むしろ運転手に謝るべきなのは飼い主の方だろう」と考えます。子供を轢かれたのとは訳が違います。被害者マインドでいていい筈がないのです。

 話が長くなりましたが、他人と価値観が違って共感できないものをシミュレーションしているという点はここです。屠殺されて食材になる動物と、愛玩動物の違いは僕にはありません。見た目が可愛いかどうかは関係ありません。猫であろうと、仮に美味しいのなら食べます。美味しくないと聞くので食べないですが。でもノネコは食べても良い狩猟鳥獣なので、機会があったら食べてみたいかも。
 そんな価値観を大っぴらに言うと、普通に引かれます。だから言いません。言っても得がないからです。言っても得がないことは、言わないに限ります。だから共感する振りをする。うんうん、猫様にひれ伏そうね。『猫様をお世話させていただいている』んだっけ?わんちゃんも家族だね。Gは気持ち悪いから潰していいけど、生き物の命は大事だよね。
 
 とはいえ、みんな価値観は違って何かズレはあるものです。愛玩動物とそれ以外の動物を明確に分けるのが当たり前とされている時代にそれが理解できないだけの僕もいれば、ワクチン打っていないだけでブチ切れる人もいれば、男らしさ女らしさという言葉が許せない人もいれば、今わざとセンシティブな言葉を選びましたがそういうのも全て価値観の違いでしかないわけです。今は自分の価値観を表に出せる個人の時代とされているので、この話も堂々とnoteに載せるべきだ!とも思いますが、実際社会の流れに逆らう価値観は普通に叩かれるだろうから、駅メモ垢で宣伝するのはやめておこう。

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