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Forever Young 【ショートショート】

漫喫のドリンクコーナーでホットコーヒーをカップに注ぐと、青田亮平はその場で一気に喉に流し込んだ。時刻は午前4時。コーヒーが全身に染み渡る時間帯だ。
亮平の背後を40代くらいの男性が通り過ぎた。ああ、漫喫の匂いだ、と思った。自分も今こんな匂いなんだろうか。汗と、個室に染みついた煙草の匂いと、あと古本独特の匂い。以前何かの雑誌で、本にはバニラやアーモンドなどの香り成分と同じ化合物が含まれていると書いてあった。確かに自分の服からは少しだけバニラのような甘い匂いがした。
シャワールームでさっと身体を洗い、髪を乾かすと、亮平は会計をして漫喫を後にした。

外に出ると息が白く濁った。冷気が身体に突き刺さる。亮平はダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで東京駅へと向かった。この時間なら、大阪行きの新幹線も空いているだろう。

東京の家は4日前に引き払った。
本当はそのまま実家に帰れば良かったのだが、亮平はぐだぐだと漫喫で日々を過ごしていた。しかし今日でもう終わりにしよう。
場所も変え、仕事も変え、全てを夢に捧げる覚悟で東京へやって来た。仕事以外の時間は、全て執筆にあてた。何十本と持ち込みをした。しかし何者にもなれなかった5年の月日は、亮平の心は折るには充分だった。

引っ越しを終えた日。
空っぽの部屋で、鍵を取りに来る業者を待つ間、亮平は家に電話をかけた。感慨に浸る亮平とは裏腹に、いつもの日常を送る母親が、せわしなさそうに電話に出た。

「亮平? 引っ越し終わったん?」
「うん。物もそんな無かったし」
「今日帰って来るん?」
「どうしよかな。もう数日だけ、東京ぶらぶらしてから帰るわ。……おとんおる?」
「ちょっと待って」

携帯越しに、「おとうさーん。亮平から電話ー」と父を呼ぶ声が聞こえる。

「今忙しいみたいやわ」
「そっか。じゃあええよ」
「私から言うとくし気にせんとき」
「あ、あのさ」
「うん?」
「また、しばらくお世話になります。適当に仕事見つけて早めに家出るようにするから。おとんにもそう伝えて」
「一人二人増えても変わらんけどな。ま、了解」

さばさばと母親にそう言われ、肩透かしをくらって亮平は電話を切った。
何もない部屋を眺めながら、亮平はぬるいビールを飲んだ。


始発まで1時間あったので、亮平は開いていた喫茶店に入った。今時めずらしい全面喫煙席の店内で、白髪まじりのオーナーが煙草を吸いながら新聞を読んでいた。スピーカーからはビートルズが流れている。店主の趣味かと思って聞いていたら、音楽が止まってトークが始まり、ラジオかと気付く。亮平は適当にモーニングを注文し、スマホを触る。

『……続いてはリクエストコーナーです。大阪府東大阪市在住、青田智三さん58歳。ははは、フルネームでのリクエストも珍しいですね』

亮平はスマホから顔をあげる。
カウンターではマスターが静かにコーヒーを煎れている。トースターでパンが焼けるいい匂いが漂ってきた。

『”東京に住んでいる29歳の息子にこの曲を送りたい”と、メッセージを頂いております。ちなみにこれは、ボブ・ディランが息子のために作った曲なんですよ。それではいきましょう、ボブ・ディランで、Forever Young』

「モーニングAセットです」
「あ……どうも」

机に置かれたモーニングには手を付けず、亮平は黙ってラジオに耳を傾けていた。
この曲はもちろん知っている。父親の大好きな曲だからだ。
ボブの崩したような歌声が、亮平とマスターしかいない喫茶店に響く。

『君が手をのばせば しあわせにとどきますように
君の夢がいつか ほんとうになりますように
いつまでも若く いつまでも若く
いつまでも君が
若さを失いませんように』

曲が終わらないうちに、亮平はLINEの父親とのトーク画面を開いた。もう一年以上、会話は無かった。亮平は何度も書いては消しを繰り返した後、

『もうしばらく、こっちにいます』

とだけ打って送信した。すぐに既読がついたので、亮平は「あ」と声が出た。続けて打とうかと逡巡していると、父親から返事が来た。

『了解』

あっさりとした返事に、亮平はまた肩透かしを食らった。ふうっと気が抜けて、亮平は本日二杯目のコーヒーに口をつけた。
気が付けばラジオは次の曲に変わっていた。亮平はモーニングを素早く腹に入れ、席を立つ。身体中にエネルギーが満ち溢れていた。何だか今すぐ動き出したくてたまらなかったのだ。

外に出ると、東京駅は既に日常の賑わいを見せていた。
家はどうしようか。バイト先は頭を下げたらまた雇ってくれるだろうか。それより新幹線の払い戻しは……。頭の中はせわしなく色んな考えが駆け巡ったが、今すぐやるべき事があるというのは、案外いいもんだと亮平は思った。

亮平は東京の高い空を見上げて、深呼吸した。そして、駅へ向かってくる人々から逆行して、街へと繰り出す。

さあ、今日も新しい一日が始まる。