名前を知らない大好きな人たち

嬉し泣きなんて、いつぶりにしただろう。

大学に入ってから、色んなことがしんどくてたまらなくて、日々泣くことでしかその感情を処理することができなかった。涙が止まらないのは自分が弱いからで、何にもできない自分が情けなくて、仕方なかった。

だから、嬉し泣きなんて、もう、いつぶりにしたか分からなかった。


その嬉し泣きの理由は、名前も知らない、でも毎日のように会っていたタクシーの運転手さんたちが、私を覚えていたことだった。

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私は中学1年生から高校3年生まで、毎日電車で通学していた。

自宅の最寄駅はいかにもな無人駅で、赤い煉瓦の小さな小屋みたいな駅に、券売機と4つくらいのベンチがぽつん、とあるだけだった。
その小屋を出たら、草がアスファルトからところどころ見える、だだっぴろいホームが広がる。屋根があるのは駅の小屋があるところだけで、あとは雨が降ったら濡れるしかない。
2番乗り場に行くための歩道橋もむき出しなもんだから、錆がいっぱいで、いつか壊れるんじゃないか、と思いながらまだ大丈夫そう。2番乗り場もこれまた青いベンチがむき出しに置かれてある。私が中学生か高校生のはじめのときにできたベンチなのに、もう塗装がところどころ禿げている。
残念ながらJR四国には自動改札機というものがないので(一部を除く)、切符や定期券をそのまま持って乗るし、降りるときは車掌さんに切符や定期券を見せるだけ(注:今は切符回収用のポストに入れるだけになってしまった。人員削減のため?)。
駅の周りには、コンビニや土産屋なんて煌びやかなものはあるはずもなく、営業しているのかわからないクリーニング屋の禿げた看板と、ちょっと奥にカラオケ喫茶(地元住民が時々騒ぐんだろう)が見える、くらい。

駅の説明が長くなったけれど、ここから本題。

私はその駅に、毎日自転車で通っていた。駐輪場、と言えるかわからない、屋根も何もない野原みたいなスペースに毎日自転車を停めて。

その駐輪場の前には、いつもタクシーが停まっていた。多くて3台、いないときはいないけど。
最初の数年は、タクシーのことなんてまるで気にもしていなかった。けれど、ある出来事が私にタクシーの存在を認識させた。

それは、私が中学3年生のとき。
台風の日だったのか、風が強くて駐輪場の自転車が何台も横倒しになっていたときがあった。
学校帰りだった私は、帰る前にその自転車を起こしていた。
そのとき、ふと横から声がした。
「おうあんた、偉いな」
タクシーの運転手さんだった。制服を見て、そうだと分かった。見れば、運転手さんも他の自転車を起こしている。
そして、「気ぃつけて帰れよ」と、運転手さんは言った。

それから、自転車が倒れているのを私が起こす度にそういうことが続いて、気づけば、私が駅に着いたときは「おはよう」と、帰るときは「気をつけてな」と言われるようになった。

高3の、共通テストが終わって登校日が減ると、それを気にかけて「もう卒業か」とか、「どこの大学行くんや」とか、今までになかった会話がなされるようになった。
残念ながら当時、まだ進路が決まっていなかったのでとりあえず「京都の大学を受けたんですけど」と言うと、「はぁー、そりゃ親御さんに悪いな、贅沢やなあ」と、決して文句を言いたいのでもなんでもない、近所のおじさんみたいな口調で言った。そういう気にかけ方をしてくださる大人がいることが、妙に心地よかった。

ただ、それがもう、その人と会う最後になった。私は結局京都の大学には縁がなくて行けず、別の県の大学に行くことになったが、それを言えないまま私は引っ越した。

だからもう、それっきりだ、と思っていた。
私はあの人の名前を知らない。
同様にあの人も、私の名前を知らない。
なんとなく、風貌を知っているだけの、それだけの関係。
それ以上でも以下でもない。
もう会ったところで、あの人は私を覚えていない。同じように駐輪場で見る別の学生さんに声をかけているんだろうな、そうだ、人は巡っていくのだ、いつも同じではないのだ…。

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大学3年生の夏休み、私は帰省した。

それまでも何度か帰省はしていたけれど、いつも短期間だったし、電車を使って街に出ることもそう多くなかったので、それ以来タクシーの運転手さんに声をかけられることはなかった。

なのに、この夏。
昔のように屋根のない野原みたいな駐輪場に自転車を置いて、街に行って、駅に着いて、さあ自転車に荷物を積んだぞ、というところで。

「あれ、やっぱりあんたやないか」

あの人だった。運転手さんだった。ねずみ男みたいな、あの人だった。

名前を知らない私を、覚えていたのだ。

卒業して2年半も経ったのに。
それまでそんなに姿を見せていなかったのに。
ましてや中高の制服も着てないのに。
私を、覚えていたのだ。

そしてその運転手Aさんは、近くにいた運転手Bさんに、
「ほらやっぱりあの子やないか」
と言った。

その瞬間私は、声には出さなかったけれど、Bさんも私のことを知っていたのか、覚えていたのか、と心の底から驚いた。
中高生の頃、Aさんにはよく声をかけられたものだが、Bさんはああいつもいるな、と思うだけで、話をしたことは一度もなかった。なのに、私のことを知っていた。

Aさんはそのまま続けた。
「いつ卒業したんやったか、今年…やないな、去年か」
「いや、…(数える)、一昨年の3月、です」
「はあ〜!もうそんなになるんか」
「はい、今大学3年生で」
「3年、ほしたらあと一年やな、いやここ数日、あんたをよう見るなと思って」
「そうなんです」
「今どこに住んどんや」
「〇〇県です」
「それは、もうあっちに住むんか」
「いや、愛媛に帰ります」
「ああそれがええ、あっちに行ってしもたらもう帰って来んからな、ちゃんと帰ってこないかん、それがええ」

Aさんが自分のタクシーに戻るのを見て、自転車のロックを外し、動かす。
「それじゃあ」と頭を下げると、運転手さん2人は、「おうよ」とでも言いたげに、タクシーの運転席で小さく手を挙げた。


タクシーの側を通り過ぎて踏切を越えた後、いや踏切に差し掛かる一歩手前くらいから、もう私は泣いていた。


私を覚えていた。

顔だけ知っている、名前も知らない、2年半ぶりに会う、そんな私を、覚えていた。

それが、こんなにも、
こんなにも、嬉しいのか。

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大学が自分にとってしんどかった(現在進行形でしんどい)理由を考えてみれば、それは、こんなタクシーの運転手さんのような、名前も知らない私を気にかける人が、周りにいなかったからだ、と思う。

私は2021年度入学生2000人〜3000人(そんなにいるか?)のうちの1人でしかなかった。大勢の中のひとり。欠けても分からないひとり。誰にとっても特別に認識されることのない、1/nとしての自分。
大学のある市にも20万人程度の人が住んでいて、私はその中のひとりだった。地域住民とまるで交流のない、〇〇大学生のひとりでしかない、私。代わりのきく記号としての〇〇大学生、〇〇市の市民、〇〇県の県民…。
私を繋ぎ止めるものは、私を固有の存在として認めてくれるものは、何もなかった。


それに耐えられるほど、私は強くなかった。

これまで、人と関わることが苦手だった。集団行動はもってのほかで、大体ひとりで行動することが心地よかった。その方が効率的だと心の底から思った。だから大学でもその姿勢を続けた。幸運なことに、それでも成績は良い方だったし(自分で言うな)、友人がいなくても何も問題なく大学でやっていける、大学は友達ごっこをするところじゃない!…とさえ思っていた。
だから自分には社会性がないのだ、個人プレーで生きるしかないのだ、と思っていた。

それは今でもそうだ。
けれど、大学2年の冬、限界が来た。
当たり前の生活が、当たり前に送れなくなった。布団から立ち上がること、着替えること、シャワーを浴びること、すべてが途轍もない労力のいることで、それら全てをタスクとしてカウントしないと、やっていけない日々が続いた。
授業に積極的に出ることが、予習の資料を読むことが、とてもではないができなくなった。

ああ自分は壊れてしまった、と思った。
もう無理だ、と思った。
今すぐこの街から脱出しないと、私は本当に駄目になる、と思った。

だから、実家に戻った瞬間、無条件で自分を1/1としてカウントする場があることに気づいて、安堵した。
ここでいい、ここがいい、もう大学の地には戻れない、と思った。

その思いを確固たるものにしたのが、今夏のタクシーの運転手さんとのやりとり、だった。

結局、人との繋がりが苦手だと言い続けてきた私が1番求めていたのは、私を認識してくれる他者だった。

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言語学を専攻する私は、「名づけ」をすることが、対象を認識する手掛かりになることを、うっすらと知っている。

けれど、名づけをされないながら、日々目にする私を、固有の私、1/1として、見てくれる人がいる。それが、タクシーの運転手だった。それだけで、よかった。

1/nにしかなれない自分は、もうごめんだ。1/1になりたい。
だから私は実家に帰りたいし、愛媛が好きだ、地元が好きだ。

「田舎」とか「何もない」とか、そんな言葉はどうでもいい。
私が1/1としての私を取り戻す場所が、ここだから、ここにしかないから、地元に戻る。それだけの話だ。

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ああやっぱり人間は社会的動物なんだ、と何度か思ったことがある。

一度目はコロナで学校が突如休校になって、社会との接点を断たれた2020年3月〜4月。

そこから色んな出来事があって、そしてn度目が、今日だった。
コロナのような悲しい気づきではない、何よりも嬉しい気づきが、今日だった。

だから私は、自分を1/1にしてくれる愛媛に戻りたいし、何より恩返しがしたい。


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