どこでもドアと、他者との関係性。

ドラえもんにしばしば登場する「どこでもドア」。
もしこれが現実にあったら?とちょっと想像してみた。(仮定の話として、今のスマホみたく、ほぼ全家庭にあるもの、としてみる。)

1.メリット

何と言っても、移動が極端に簡単になる

例えば日常の買い物。10キロのお米を買ってもそれを自転車の荷台に括り付けてきつい坂を上って帰る、なんてことはしなくていい。ドアを開けばすぐそこが家。
車を使う必要もない。だから当然、ガソリン代が浮く。車検代も、車の維持費も、自動車税も、何もいらない。(どこでもドアのメンテナンス代がどれくらいいるのか分からないけれど)きっと、家計は大助かり。道も渋滞なんてしない。車による大気汚染もなくなる。交通事故の心配も、ない。
それに、わざわざ近所のスーパーを選ばなくても、全国どこのスーパーに行ったっていいのだ。私ならとっても安い業務スーパーに行って買いだめするに違いない。

買い物だけではなく、学校への登下校、仕事の出勤もそうだ。
もう満員電車に揺られる必要はない。地方の人たちが、電車の時間に左右されることもない。定期券なんて必要ない。コロナに感染する可能性も減らせるし、最近電車内で起こっている犯罪に遭うこともない。
というか、学校の校区もいらないし、就職先を地元か都会かの二極化する必要もない。行きたい学校、会社を自由に選べるようになる。
(尤も、オンラインサービスの普及でその実現はうんと現実のものにはなったけれど)

後は、そう。旅行。
どこでもドアで本当にどこへでも行けるなら、日本だけではなくて海外の、今の公共交通機関だとアクセスがうんと悪いところもドアを開ければすぐそこにある。やっぱり、交通費は大きいから、交通費の問題さえなくなれば、世界はぐっと近くなる。留学なんて概念もなくなるかもしれない。だって、すぐそこなんだから。
いや、地球に限定しなくたって、宇宙でもいけるのかな。そうだとすると、わざわざ宇宙環境に耐えられるロケットを作らなくても、すぐ宇宙探査に行ける。今まで解明されなかったあらゆるものが急に手に取るようにわかるようになって、小中高の教科書はずっと分厚くなるだろう(笑)。

こんな風に、どこでもドアがあれば、世界の全部が、自分のものになる。(適用範囲は分からないけれど)

他には何だろう。仕事の面で行けば、さっき軽く触れたけど、どこでもドアのメンテナンス会社が増えるのかな。コロナの流行と共にオンラインサービスが急増したみたいに。

2.デメリット

私はさっき、メリットのところで「極端に」移動が簡単になる、と書いた。
この「極端さ」こそが最大のデメリットではなかろうか。
すなわち、移動するための過程全部が省かれてしまう。

まず、雇用の問題があるだろう。
公共交通機関を運営する会社は、全て潰れる。鉄ヲタのような、よっぽどの付加価値を見出されない限り、利用者は減ってしまうだろう。
自動車製造会社も、もういらない。運転を趣味とする人には需要はあるだろうけど。となると、道を整備する会社も、ないんじゃないか。
旅行代理店もいらないし、下手すれば宿泊業も潰れるかもしれない。わざわざホテル代を払わなくたって、ドアの向こうの自宅のベッドで寝て、また後から旅行先(あるいは出張先や留学先など)に戻ればいい。
うん、他にも色々ありそうだけど、この辺でやめておく。

次に、どこでもドアを使った犯罪の増加
好きな人の家にこっそり侵入して部屋を覗く。嫌いな人の家にちょっとしたいたずらをする。そんな簡単なことで済めばいいけれど、重い役職についている人の殺害とか、マイノリティの排除とか、色々な犯罪が横行するだろう。

そこから拡張すると、「自己」と「他者」の境界線が弱くなるだろう。今まで存在したプライベートゾーンや、「ウチ」と「ソト」はもうどこにもない。ドアを開けるか開けないか。たったそれだけの関係性に、全てが集約される。
だから、自分の範囲がどこまでで、相手の範囲にどこまで立ち入っていいのか、わからなくなるように思う。

それは、自己のアイデンティティの喪失にも繋がりかねない。
例えば、私は愛媛県宇和島市の出身としてのアイデンティティを、自己の内側にしばしば感じる。
けれど、どこでもドアがあったら、果たして私はその地域性アイデンティティを、いつまでも持ち続けられることができるだろうか。
市外、県外の人が当たり前のように流入してくる環境にいて、自分が「宇和島市出身」だなんて、胸を張って言えるのだろうか。そもそも、市町村とか県とか、あるいは国とか、そんな境界はどこまで通用するのだろう。もはや、地図上の区分と、行政管理上のものとして形骸化するのではないか。地域コミュニティなんて必要ないんじゃないのか。


そんなことを考えて、今まで挙げたデメリットを総合してみたとき、自分の中に出た結論は、「関係性の喪失」である。

自転車をこいで10分先のスーパーに行く。それだけで、私はあらゆるものを見る。
例えば、道端に生えている名前も知らない草木。横断歩道を渡る高齢者。授業に遅刻しそうで慌てて自転車をこぐ大学生。ちょっと周りと違うお洒落な建物。
そういった、色々な自分の周りの環境を見落としてしまう。

だから何だ、という人がいるかもしれない。
自己がいて、自己がしたい行動をして、それでいいじゃないか。周りの環境が何だ。したいことを己の気の向くままにすればいい。と。

でも、コロナ禍になってよく言われるように、私たちは一人では生きていけないのだ。言葉にしてみれば陳腐なのだけれど、生まれたときから色々なものを見て、聞いて、感じて、味わって、今の自分は形成されている。
周りの環境があって、自分が存在する。私が今立っているのは、私だけの力ではない。

周りの環境がなくなるということは、それら全部を喪失すること、つまり自身を喪失することだと、私は思う。

最初、コロナが日本に入ってきたとニュースになった。途端に、学校は休校になった。高2の3月、高3の4月。それと、5月は分散登校だったから、実質半分も行ったのか怪しい。6月からも、放課後に学校に残って勉強するのは許されず、授業後すぐ帰宅するよう言われた時期があった。
そんな日々の中で、私は、いかに今まで、自分が他人と直接的交流を持つことで形成されてきたのか、ひしひしと感じた。特に、学校が休校になった2か月間、私はほとんど言葉を発することすらなかった。誰とも話すことがなく(家族と一緒にいたものの、こちらから提供できる話題が何一つなかった)、毎日が自分の中で意味もなく消費されていった。
その2か月の中に、他者は存在しないに等しかった。

そこで初めて、私は「人間は社会的動物」だと、直観的に思った。

3.コロナ禍とどこでもドア


長くなってしまったけれど、今のこのコロナ禍は、どこでもドアが与えられた環境に半分くらい似ているんじゃないかとすら思う。
誰とでも繋がれる。
それは便利なことだし、今までの人間関係の煩わしさから解放された人も少なからずいると思う。私もオンライン授業などで恩恵を受けているし(実際オンデマンド動画は楽だなと思う瞬間が多々ある)、全く否定する気はない。

けれど、誰とでも繋がれることは、ある種境界を喪失していることにもつながるなと思う。
旅行先で、見知らぬ誰かに声をかけられる偶然性。そう、今の社会は偶然性が弱くなっているのかもしれない。
自分がこういうサービスを求めているから、それを提供してくれる人、会社、サービスを検索して、ボタンをぽちっとする。勿論その中にも過程は沢山あるのだけれど、「自分がこれを求めている」と思わなければ生きていけない窮屈さがあるのではないか。
必然性がなければ、動きにくい社会になってはいないだろうか。

私は、偶然に出会うものが大好きだ。
主体性がないと言われるかもしれない。それは確かにそうだと思う。それでも、自分が自分だけでここに立っているわけじゃないと思うから、偶然を信じて、今日も偶然を待ってみる。
そういう生き方が、今の自分には合っているかな、と思うのだ。






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