『光る君へ』をみる。

歴史が好き。大河ドラマも当然みる。
今年は『光る君へ』。紫式部、藤原道長を軸に織りなされる平安中期の物語。

私のお楽しみポイントは、その時代の生活を垣間見ること。
綿密な時代考証を踏まえた上で、できる限り再現している当時の生活風景を時の旅人のように旅をする。

そしてもう一つのお楽しみポイントは、その時代のうねりの渦が巻き起こる前兆を様々な観測地点から味わうこと。

マクロ的に時代というものをみた場合、さも突然変革が起きて歴史が大きく動いた風に見える。

そして平安時代という約400年続いた歴史の時代区分も一見するとそう見えるが、その実、ミクロな視点で皇族、朝廷、地方貴族、海外の動き…果ては民衆の一挙手一投足まで見ていくと、時代という実体のないものがじわりじわりと蠢めいて全国に様々な波を及ぼし、うねうねと、くねりながら、絶えず変容しながら時のなかを流れているのが見えてくる。

その蠢く時代をミクロ的に味わうことのできるのが『大河ドラマ』だとおもっている。

昨日、ようやく第一話をみた。
入れ子構造にゾクゾクした。
『史記』の〝馬鹿〟のくだりが3回ほどある。

最初にまひろ(紫式部)の父が『史記』をボソボソ読んでいるシーンでしれっと指鹿為馬(しかをさしてうまとなす)」と読んでいる。

別の日に、父がまひろに〝馬鹿〟の説明をするシーン。

その後、まひろが三郎(藤原道長)との邂逅シーンでまひろが三郎に〝馬鹿〟の説明をするシーン。

この流れを踏まえて、終盤にまひろの母親が実力者藤原兼家の子、道兼(三郎の兄)に刺殺される事件が起こるが〝馬鹿〟の故事の説明を滔々とまひろにしていた父は、実力者の兼家に、物が言える立場ではなく、まさにその『馬鹿』の故事のように、鹿を馬だと言う。

妻は殺されたのではなく、病死ということにして事件を隠蔽する父、まひろの心に深いキズが刻まれる。


道兼…許すまじ!!!


あまりにもおもしろかったので、つい走り書きで書いてしまいました。何卒ご容赦。




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