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生存戦略から考える『少数派』の重要性

今回の記事は別にどこのサポーターが云々、という類のものでは無い。
だからハッシュタグもつけない。
フットボールの話に触れる部分もあるにはあるが、そんなに期待しないでお読みいただければと思う。


最近、とても感じていることがある。
それは古き良き時代の日本における義務教育的な
『みんなで一緒にできるのは良い事』
という価値観の弊害である。

確かにそれはその時代を生きる上で、
国家というものが
開国や文明開化を経て欧米列強と肩を並べる存在になるため、
また戦後という混沌とした状況と敗戦という痛みを払拭するために、
必要な価値観であったとは思う。

だが、その陰で『みんなで一緒にできないことはよくない事』という価値観も静かに侵食していってしまったことは言うまでもない。


社会的弱者の存在意義

こうした『みんな一緒にできるのは良い事』という価値観の陰で、それについていけない人々は社会的弱者として様々な社会福祉を受けることとなる。
しかし、最初からそうした制度があったわけではない。
むしろほとんどの制度は『後付け』だ。
ついていけなくなった人の痛みや苦しみの声が、
大きな事件や話題にのぼってようやく整備されていくような、
俺の屍を越えてゆけ状態の闘いの果てに、
いろんな社会福祉が整備されていくに至る。

かく言う私も障害者手帳を持っている。
しかも、大人になってから発達障害が分かるという、
散々こじらせてから発覚パターンである。
『健常者』から『障害者』という扱いの違いを実生活で体験していく中では「あぁ、基本的に社会というものは人間じゃなくてレッテルで物事見るんやなぁ」
と良くも悪くも感じたものである。

そんな私の社会的弱者の存在意義についての考えは、
以下の記事に取り上げられているyahoo知恵袋に対する回答と
まるっきり同じである。

簡単に要約すると、


自然界の掟は個体レベルでは『全肉全食』であるに対し、種レベルでは『適者生存』となっていく。
その中で人間は、自然の中では全員が弱者だった状態から、弱者同士が集まり『社会性』という生存戦略を持ち、少しでも多くの弱者を生き延びさせることで、時代や環境によって変わる『適者』としての生存可能性を最大限に大きくすることが出来る。
出来るだけ多くの『イレギュラーパターン』を社会に抱えておくことは、生存戦略上の『保険』である


というものだ。
まったくその通りだと思ったし、自分の中で何か言葉に出来ずにモヤモヤしていたものを具現化してもらったことで、スッキリしたのを覚えている。

そしてこの回答は最後にこう締めくくられる。


だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である。「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられない。
我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということ。



クラブ・サポーターの生存戦略

こうした人間としての生存戦略を知るにつれて、
すっかりフットボールジャンキーである私の脳みそは、
一つのクラブ・サポーターができるだけ長くそこに存在するためにも
必要なものであるだろうなぁ、
と感じるに至る。

確かに現時点ではそのクラブやおかれた地域によって、
それぞれの『色』があると思うし、
その場所に応じた『多数派』『少数派』みたいなものが
が存在していると思う。

そしてこうした図式の中でよく繰り返されるのは、
近代の日本で構築されてきた『みんなと一緒にできるのは良いこと』
という虚構の安心感・優越感と
『みんなと一緒にできないのはよくないこと』
という謎の正義感・同調圧力である。

フットボールというものが勝負を争うものである以上は、
クラブ同士、サポーター同士がバチバチやるのはまだわかる。
しかし、それが全国津々浦々の仲間サポーター同士でも発生してしまうのは、正直違うなぁ、と感じる。

意見は違っていい。
価値観も違っていい。
相性が合わないことだってある。
不快感を覚えることもあるだろう。
それを個人的に愚痴を言ったり、
自分はこう思うとSNSに流したり、
感情的にならずに対等の立場で議論し合うのは
まったく健全であると思う。

でも、直接議論もしないのに、
『これ違うよね?みんなもそう思うよね?』
みたいな絡みとか、
『それは間違ってます』
という感情的な上から決めつけ目線で噛みついたりするのは、
無意識の価値観に縛られてはいないだろうか。

果たしてそれはクラブがその土地で生存・繁栄していくために
必要な戦略にそっているのだろうか、という視点は
推しクラブがどのようなカテゴリーにいようとも
またどのような成績であろうとも
自戒も込めて忘れずにいたいものである。

『正解』はいつまでも正解であるという幻想

もう一つ忘れずにいたいものがある。

人は何かの方法で成功を掴んだ時、または安心・安全・快楽が保たれた時、
同時にそのやり方は『正解』であったのだ、という印象を掴みがちだ。
確かに、それが目に見える結果に繋がったり、
その方法を取ることによって、満たされた気持ちになるのであれば、
自分にとっての正解であったのだろうとは思う。

だが忘れてはならないのは、そこに『時間』や『関係性』という軸を結び付けられるかどうかだと私は思う。

例えば20代の時にカッコよく、カワイク身につけられていたファッションは、
50代になって同じようなものを着ると、そうはならないことが多い。
もちろん全員が当てはまるわけではないが、おそらく身につけるモノは年齢によって好みの軸はあれど、移り変わっていくものだと思う。

だが、服装ならば他人の目に触れる機会がある分だけ、敏感に移り変わっていくものであるが、
いかんせん頭の中の成功体験やそれに基づく価値観は服装ほど人の目に触れることも無く、前述した例における『好みの軸』に当たる部分なので、より『自分』という存在の根幹に近い位置にあるものだからこそ、
時代に合わせてスライドさせていくことは難しい。

ましてフットボールを取り巻く世界は
通常の社会よりもスピード感が早い。
今の正解が5年後~10年後も正解かどうかは分からない。
そういう意味で、
自分とは意見の違うものを無理やり抑え込むような正義感だったり、
そこから排除しようとする同調圧力は、
クラブが長く生存していくための、
遺伝子多様性を奪ってはいないだろうか。
という視点を意識したいものである。


さいごに

弱者の存在意義の欄で紹介した記事の、
最後の文末をフットボール、クラブ、サポーターの関係性に当てはめて
まとめとしたい。


「闘争」も「協働」もフットボールを取り巻く構成要素だが、どちらがより「フットボール」の本質かといえば「協働」である。「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないとフットボールもクラブもサポーターも生き延びられない。
我々全員が「フットボールを愛する者」であり、「フットボールを愛する者」を生かすのがフットボール、クラブ、サポーターの生存戦略だということ。

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