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応援する『意義』

今回はふと思い立ったので備忘録的に書き記しておこうと思う。
(忙しい人は『最後の一言』へとばしてどうぞw)

スポーツの試合では往々にして、打楽器を打ち鳴らし時には管楽器も使い、それに合わせて人々は声を出し、選手たちを応援する。
競技によっては大旗やゲーフラ、横断幕なども用いて会場を彩り、その場所を己の"推し"の色に染める。

そして、応援をしている人たちにはそれぞれの理由があって、時間・資産・体力・精神力をつぎ込んで推しの勝利や、推しが少しでも良い結果を残すために行動する。

だが、応援をする理由は人それぞれでも、もっと根本的な応援そのものをする『意義』について思いを巡らせたことはあるだろうか。
なぜ応援が必要なのか。なぜ応援をすることが推しの良い結果に繋がると信じ、人々はここまで熱を、魂を込めるのだろうか。

もちろん金銭的な支援という意味合いであれば、いくらでもそこに意義はある。
また血のつながった家族が選手として試合をしているなら、その意義は語るべくもないだろう。

しかし、推しに直接的な金銭も入らず、相手は赤の他人で、それでも良い結果を残してほしいと思い、五感に届けるような応援のスタイルはある。
それは例えば筆者が触れてきたフットボールの分野では、試合中に声を出して歌う、太鼓を打ち鳴らす、大旗を振る、横断幕やゲーフラを飾る、などといった”目に見えない魂・気持ちを伝える”類のものだ。

なぜそれをすることが推しの良い結果に資することになるのか
この部分を特にフットボールに例えて個人的な見解で掘り下げていきたいと思う。


ふわっとした空気

よく選手やスタッフ、サポーターがその試合の雰囲気を
『ふわっとした空気』
という言葉で表現することがある。
大抵は結果がふるわなかった時に使うことが多く、地に足のつかない安定感を欠いた状態や盛り上がりを欠いた雰囲気であったことについてそう語る。
それは目に見えない感覚的なものであるが故、共感できない人もいるだろうと思う。

だが個人的にはそれを体感したことがあるので、とてもよく分かる。
(あっ、今日はこの空気厳しいな)
そう思ったことが何度もあるし、覆そうと尽力しても実際にそういう試合結果へ行きついてしまうことが大半だった。

もちろん選手やスタッフは感覚を研ぎ澄ませて試合に臨んでいるから、そうした肌感覚に対して敏感な部分もあるだろうが、数多く推しの試合に足を運んでいる人や、応援を扇動する役目を担ったサポーターなども、こうした『違和感』を覚えることがあると思われる。
それは何かしら”いつもと違う物足りない”雰囲気がそこにあって、競技者のみならず観客にまで影響を与えているという、なんとも摩訶不思議な話だ。

しかし、そうしたことが実際にあるというのは『ふわっとした空気』と表現する人が少人数ではないことから、事実なのだろうと思う。


逆に"雰囲気で勝てた"と表現する場合もある。
圧倒的な空気感、雰囲気の圧力で良い結果を出せた。
これも目に見えないものであるが、実際に多用されるフレーズだ。
だとすれば、毎試合その熱量を維持できるなら負けることなどないように思うが、そううまく事は運ばない。
なぜならプレーするのも熱狂するのも人間であり、会場の雰囲気とは1人、2人の人間では創りえないものであるからだ。



雰囲気という魔物

ここからはさらに個人的な見解になるので、細かいことには目をつむってほしい。

正直なところ、私は応援によって勝敗が左右されるということはほとんど無いと思っている。
もしそれで勝利が決まるのだとすれば、より数が多く、より熱量の高いサポーターがいるようなクラブが毎年優勝しているはずだ。
でも実際はそうではない。

仮にサポーターが「ふわっとした空気」でも勝つチームは勝つ。
応援の質=クラブの成績ではない。
別にふわっとした空気そのものが悪いわけではない。
なら応援なんていらないんじゃないか、という発想になってしまいそうだが、それもまた違うと思う。
なぜなら、そうした場面・そうした試合もゼロではないと思うからだ。

雰囲気や空気感といったものは感覚に訴えかける『魔物』だと私は感じている。
人間というものが五感や六感を駆使して活動する不確実な生物である以上、その魔物を味方にできるかどうかで勝敗が左右されることは十分にあり得る。
ダブルスタンダードに感じるかもしれないが、実際にそういうことはあると思う。
あと1勝、あと1点、あと1回、あと1センチ。
W杯では三笘の1ミリが空前の話題となったが、そうしたギリギリの攻防になった時、人間である選手が『ノれる』雰囲気にできるかどうか。
それは応援だけに限らずクラブを取り巻く全体としての下地の構築や入念な準備、細部へのこだわりやケアが揃ってはじめて試合において『ノる』ことが可能になる。

神は細部に宿る、魂は細部に宿る

とは本当によく言ったもので、人間の感覚は不確実だからこそ、ちょっとした部分でノれたりノれなかったりする。
もちろんそういう不安定さは無いに越したことはないが、人間である以上そうした部分をゼロにはできない。

だからこそ私達は魂を込めて、応援を選手たちに届けようとするのかもしれない。
細部に宿る"雰囲気"という魔物を味方につけ、目の前のわずかな攻防をモノにするために。


過ぎたるは及ばざるがごとし

ならどのクラブのサポーターも熱く魂込めてオラオラすれば応援の雰囲気が創れるかというと実際はそうではない。
その地域、そのクラブ、今その瞬間その場所にいるサポーターごとに下地は異なるからだ。
そうした下地を無視して応援だけを先鋭化させていくことは、むしろ細部を無視している形になりかねない。
そこに明確な正解は無い。

個人的には

過ぎたるは及ばざるがごとし。

という視点を持っておく方が有利な部分は大きいと感じる。

もちろん時と場面によっては意図的に”過ぎる”ことも必要だ。
だが、応援の価値最大化を目指すためにはどれだけ多くの共感を生み、どれだけ多くの魂を引きつけられるかが雰囲気を創るカギだと思う。
そして、その時の最善を教えてくれるのもまた『雰囲気』なのである。
ホントに魔物だなぁ、とつくづく思うが、コントロールが効かないからこそ、そこに魅力や熱狂があり、不思議とそれを味方へつけた方に人は集まる。
楽しい、心地良い、面白い、という目に見えない『好き』の理由となる感覚に抗えないのもまた人間なのである。


長くなってしまったが、応援の意義とは。
それは『雰囲気』という細部に宿る感覚の魔物を味方につけるため、人々が魂を込める一種の"神事"や"祭事"なのかもしれない。
楽しいから、面白いから、勝つところを見たいから、好きだからと直接的な理由は人それぞれあれど、全体を俯瞰してみるとやはり意義は『祭り』に近いものがある。
目に見えないものを通して心を尽くし、やり取りを重ねた末にやってくる『魔物が神へと変わる瞬間』。
そこに人間の本能として魅力や充足を感じているからこそ、世界中でこれだけたくさんの人々がスポーツに熱狂し、推しを応援をしているのではないだろうか。


最後の一言

まぁ、小難しく考えるとそんな感じだと記してきたが、
一言でここまで書いたことを台無しにすれば、

よりたくさんの人が楽しきゃ雰囲気は味方につく

が真理じゃない?
人間『楽しい』とか『好き』って感覚が最強だと個人的には思う。



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