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「くまの子ウーフ」を読んで。


くまの子ウーフが好きだった。

どれだけ好きかというと、歌を作っちゃうほどだ。
「くまの子ウーフ~♪」を三回繰り返すだけのもので、なぜか演歌調(-_-;)
いつ作ったのか覚えていないがたぶん小学校低学年だ。


ただ、そこまで好きだったのに、内容を何一つ覚えていないことに
私自身驚いた。
大体が忘れっぽく、最近では昨日何食べた?のことまで覚えていなくて、
自分でもやばいと内心心配しているほどだが、それにしたって、歌まで
作ってしまうほど好きだったのに、なぜ一行も思い出せず、今回もう一度
読んでも初めて読んだ感がありありで、「えっ?こんな話だった?」と
内心焦った。

私は、昔から本を読むのが苦手だった。特に長文を読むのは今も苦手だ。
親には何かにつけて「本を読まないからだ」と言われた。
国語の成績が良くないことだけじゃなくて、全体の成績がふるわない
ことも、人とのコミュニケーションがうまくできないことまで、本を
読まないせいにされた。


だけど、星新一や今昔物語など、短編は好きだったし、エッセイや推理小説
は読めた。でも、いわゆる親が読んでほしかった、名作文学は、ほぼ読んでいない。そんな残念な子どもが、ウーフの素直な疑問や突飛と思える行動をできることやそれをスルーしたり、たしなめないお父さんやお母さんにあこがれていたかもしれない。

私が親になり、子どもには本を読んでもらいたいと小さいころから本を買い与え、読み聞かせをしたりしてきたが、ここでも「くまの子ウーフ」は思い出されることもなく、とうとう子どもの本棚に並ぶことはなかった。


私は、私が望んだウーフのお母さんのようになれなかった。それどころか、自分が嫌でしょうがなかった、文学作品を読むよう強要する母親になった。
そんな時、先日の岸田さんと編集者の松永さんのトークライブを聞いて、
胸が苦しくなったと同時に気が付いた。


私はウーフという自分の子どもやウーフのお母さんになれなかった自分を本の中に見出すのが、怖かったのだ。
できていない自分を目の当たりにすることを避けるために、知らないうちに記憶からなくそうとしたのかもしれない。

子どもはすでに20歳を過ぎ、家を出た。子どもの本棚にはまんが本が
並び、本はと言えばファンタジーものばかりだ。今更「くまの子ウーフ」を送っても「なに?これ」と言われそうだが、自分の中にいる子どもの私に
読み聞かせることはできる気がする。


子どもの私はどんな気持ちになるのだろうか?
そして、子どもの私はどんな感想文を書くのだろう。今から楽しみだ。

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