R-小太りのおじさん

 小太りのおじさんとキス距離を二駅分。晴れ晴れしく出かけた日には、そんなバッドエンドが待っていた。電車の揺れが二人の物理的距離感を悪戯にも弄ぶ、不快と緊張が人混みと一緒に押し寄せた。満員電車が好きという人がいるならば是非戦いたい、が、私は平和主義だ。息の吸いづらさ、生活感の匂い、一ミリでも動くと刺さる人の視線。全てが私を窮屈にする。恐ろしくテクノロジーとやらが発展している時代だというのに、なぜこうなるのかとやり場のない怒りに見舞われる。

 小太りのおじさんは、ほのかにバニラの香りがした。やけに小さく見える最新のiphoneを手にし、漫画を読んでいた。ように見えた。確かに目に映っていた、陽が落ちかける茜色の景色は一瞬にしてモノクロへと変わった。小太りおじさんと目があったのだ。それも幾度もだ。幼き頃に熟読した少女漫画はあっさりと私を裏切るではないか。あいにく負けず嫌いな性格ときたら、どこでソレを発揮するのかわからない。奴から目を逸らす事ができなかった、最悪な事に今ソレを発揮した。自分で自分の首を絞めるとはこの事だ。前言撤回、私は平和主義などではない。先に目を逸らした方が負けだ、なんてくだらないルールが世界のどこに通用するのか。平日の17時ごろ吉祥寺行きの井の頭線1号車だ。気になる勝負の結果だが、同点といった所だろうか。たった二駅で奴はリングを後にした。

 

帰り道、モノクロへと変わってしまった景色を取り返すために空を見上げた。そこには勝利を祝福するかのような美しい空が広がっていた。思わず「空が綺麗だね」なんて似合わない台詞を送信した瞬間、微かに甘い香りが漂った。




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