十二歳のトラウマは、まだ。

白髪を塗りつぶした黒髪。

長い髪のハーフアップ。

顔に厚塗りされてうっすら見えるしみ。

マスクの裏についたファンデーション。

ぶつぶつという顎を小さく動かした喋り方。

口角をぴっと上げた笑顔。

校舎裏に停まった紺のスペード。

サンバイザーと日焼け止めのアームカバー。

静かな教室で泣きながら謝る友達の声。

紺にピンクのラインの入ったジャージ。

黒板に綺麗に払いのされた字。

保健室の机。

まだ、全て鮮明に思い出す。


私は、卒業を目の前にした小学6年生の1月に不登校になった。

正確に述べると、学校には行っていた。

教室に入りたくなかっただけだったから保健室登校をしていた。

原因は、担任教師だった。

50代前半の女だった。

20になった今、

私はまだ、彼女の夢にうなされる。



彼女が担任になったのは、小学5年生の4月だった。

元気に挨拶する彼女は、普通の明るい先生、に見えた。

最初に異変を感じたのはいつだっただろうか。

気が付いたら、30人近くいるクラスの子どもがA、B、Cの3つの「ランク」に分別されていた。

Aは優秀な人。Bは普通の人。Cはダメな人。

AはAと帰る。CはAと帰ってはいけない。Cの席は一番後ろ。

私は本当に普通の子どもだった。

小学校高学年というのは前に出ることに恥ずかしさを感じたり、

男女一緒に遊ぶのをためらったり、

たまごっちが好きだったり、

おしゃれに興味が出てきたり。

ごく普通。

最初、彼女からの私の評価はBだった。

本が好きで、学校の勉強はそこそこできたけれど、

彼女が求める小学5年生ではなかったみたいだ。

両親は叱ったり、注意したりすることはあれど、感情的にただ「怒る」ということはしない人たちだった。

だからこそ、狭い世界で生きる小学生の私にとって、

担任教師という身近な大人からの怒鳴り声は衝撃的だった。

私は必死に彼女の求める小学5年生を目指した。


授業中はとにかく元気に手を挙げる。

休み時間は本を読むのではなく校庭で仲良く鬼ごっこ。

1日何時間もかけて宿題の漢字ノートを綺麗に書く。

赤ペンで丸付け、青ペンで間違ったところを丁寧に直し、

ポイントは緑のペンで書きこむ。

そうしないと花丸をもらえない。

花丸だったのか、あともうちょっとの四十丸なのか、だめな三十丸なのか。

二重丸やただの丸、何も書いてもらえないのはCの人だけだから絶対に嫌。

毎回どきどきしながら返却されたノートを開いた。

常に笑顔で。

掃除も体育も給食の準備も全力で。

線を引くときは定規を当てて必ず左から右に。

ミスをしたらみんなの前で立たされるから。それだけは嫌。

たったの半年で、私は彼女に、見事に洗脳された。

結果、十月には代表委員会という生徒会のようなものにクラスの代表として入った。

常にAの評価をもらえるようになった。

小学校は、書道や理科の実験など特殊な授業以外は全て担任が教える。

それが週5日。

よって、6年1組はほぼ独裁状態だった。

算数よりも国語よりも学活が大切よ、と彼女は言って、

一日中「学活」という体で先生の話を聞き、

叱責され、誰かがつるし上げられた。

Cの子はほぼ毎日立たされていたと思う。

立たされると言っても、のび太のように廊下でただ立たされるわけではない。

教室の中で、皆がいる中で、立たされる。

「どうしてできないの?」「あんたは本当に何もできないのね」

などの言葉に黙りこんでしまう。

そうすると、黙ってみていたAの子に対し、

「何も言わないのはあなたも同じ。Cよ」と矢が飛んでくる。

Aになる子は自分の評価を下げたくないと必死に発言する。

「そういうことされるとクラスの迷惑です」
「僕たちは〇〇さんがいるせいで困ってます」
「私たちは頑張っているのに」

彼女はその様子を満足げに見ていた。

クラス全体での、担任主体の、いじめだった。


彼女はよく自分の話をした。

授業時間中に、である。

昨晩何を作ったか、

高校生の子どもの話、

仲良しの先生(今考えれば学校全体を支配するおばさん先生たちの派閥である)との旅行など。

私たちは必死に聞いて、頷いて、「すごーい」と無邪気な子どもを演じた。

それが嫌だ、面倒くさいと思うことすらなくなっていた。

先生の「お話」は全て大切なんだと信じていた。

おかしくなっていた。

学習発表会、校外学習、運動会など、とにかく必死だった。

何のため?

先生のため。

でも、当時は自分のためだと信じて疑わなかった。

教室外からの6年1組の評価は高かった。

さすが彼女のクラスの生徒だと他の先生から褒められた。

異様な空気に気が付く先生はいなかったのだろうか。

気が付いても最高学年の学年主任まで務めるベテランの彼女に指摘できる人はいなかったのではないのだろうか。



卒業まであと2か月の節分を前にしたあの寒い日。

私の糸がぷちんと、切れた。

クラスごとに「追い出したい鬼」を節分集会で発表しなければならないため、それについて話し合っていた。

彼女の機嫌は最悪で、普段Aの子までも複数叱責され、もう堂々と発言できるのは私と、もう一人のAの女の子だけだった。

「忘れ物をする鬼」
「自分から動かない鬼」
「頑張らない鬼」

頑張って二人で出した案は全て、彼女からの
「今まで何回言っても治らなかったじゃない」
で一掃された。

「二人以外何も言わなくていいの?」

そう言ったピリピリした声に私はもう疲れていたんだと思う。

話が頭に入ってこなくなって、頷いてしまった。

「友達のことなんてどうでもいいのね」

ただひたすらに理不尽な理屈で責めたてられた。

田んぼ道を歩いて帰って、家について、こたつの中で号泣した。

目の前の母が困っていた。

泣きながら「もう学校には行かない」と叫んだ。


翌朝、本当に行かなかった。

父も母も焦っていた。

父から一時間だけ行って来いと言われて車で送ってもらった。

彼女もさすがに焦ったようだった。

わざわざ駐車場まで私を迎えに来て、

私に抱きついて、

さも心配している素晴らしい教師のようだった。

もう何も感じなかった。

そうだよね、完璧な6年1組から不登校の生徒なんて出たら困るもんね。

「1時間だけでいいから」

その言葉を信じて教室に入り、1時間だけ静かに受けて、帰る準備をした。

「本当にそれでいいの?」
「後悔しないの?」

と私の手を握ってきた彼女を見て、私は絶望した。

その手を振り切って、「はい」とだけ答えてランドセルを背負った。

たぶん、ここで洗脳状態から脱した。

同時にそれが、永遠とまとわりついてくる彼女の影との闘いの始まりだった。


保健室登校を始めた。

みんなが登校し終わってからこっそりと保健室に入り、

自習をして、給食を食べて、

休み時間にはパーテーションの影に隠れて、

みんなが下校する直前に逃げるように帰った。

保健室の先生はとても優しかった。

一度、登校したら彼女が保健室にいたことがあった。

私はその姿を見た瞬間に走って逃げた。

私が保健室に来る時間を狙って説得しに来たようだった。

泣きながら怯える私を見た校長先生が、

彼女を叱ったと保健の先生から聞いた。

大の大人が大の大人を叱ったらしい。

校長先生は、今まで彼女を信頼しきって、

気が付いてくれなかった点は残念だったけれど、

そのあとは真摯に対応してくれた、と思う。

メンタルクリニックに通い、精神安定剤をもらった。

夜中に不安になって泣いた。

カウンセリングを受けた。

彼女から追いかけられて必死に走る夢を見た。

ノートに思っていることを書きだした。

真っ黒に塗りつぶした。

白くて小さなハムスターを飼った。

保健の先生とお喋りした。

母は公文の先生に励まされて泣いていた。


何とか迎えた3月の卒業式。

私は式にだけ出席することにした。

みんなが体育館裏に並んだと保健の先生が教えてくれたタイミングで入った。

緊張して手が震えた。

どうして私がこんな思いをしなきゃいけなかったんだろう。

みんな、私を久しぶりに見て驚いていた。

彼女は見ないふりをしていた。

彼女からの謝罪は一切なかった。

ずっとCだった子に「今までのことは許すから、元気に挨拶しなさい」と言っていた。

心底くそだと思った。

卒業して、私は中学生になった。

田舎だったので6年1組の子は全員同じ公立中学校に進学した。

たまに、不登校だったと他の小学校から来た友達が知っていることがあった。

その度に少し、傷が疼いた。

彼女は学年主任からおろされて、1年生の担任になったらしい。

あんなことをしたけれど、新しく三十人弱の、

たった6歳か7歳の子どもたちの担任に、あいつがなった。

また同じことを繰り返しているのではないか。

同じように苦しんでいる子どもがいるのではないか。

復讐方法を考えたりもしたけれど、実行に移すことはできなかった。

数年して、遠くの海の近くの学校に転任になったと聞いたきりである。

もうそろそろ定年退職したのかもしれない。

中学、高校と保健室にはお世話になり続けた。

心療内科は転々とした。

その度に医者からは時間が薬です、と言われた。

そんな状態でも、中学校でも高校でもそれなりの成績を取っていた。

よく、基礎力があると言われた。

そのたびに、思ってしまう。

私がテストの点数が良いのは小学校高学年で、

彼女が出す大量の宿題をこなしていたからではないか。

毎日漢字練習をノートにぎっしりと5枚も6枚もしていたからではないか。

もしもクラス替えで私が1組ではなく2組だったのなら、

最後まで教室へ通い、普通に卒業式に出ていた代わりに、

今の私はこんなにテストで点数を取れなかったのではないか。

今の大学に通っていないのではないか。

彼女に出会わなかった人生は

パラレルワールドを覗かない限り、分かる訳がないのだが。

あの日々が今の私の一部になっているのは事実である。

現に今、彼女のことを私は寝る時間を削って書いている。

彼女はきっと私のことなど、

あの日々のことなど忘れて、

田舎でのんびり寝ているのだろう。



精神が不安定になるたびに彼女が夢に出てくる。

前は泣きながら起きていたけれど、

最近は彼女が出てきたら疲れているんだなと

客観視して自らのバロメーターにするようになった。

似た姿の人を見かけると体がすくむ。

違う人だ、彼女がここにいるはずがないと唱えても、

一度抱いてしまった嫌悪感は拭えない。

その人は悪くないのに、と自分が嫌になる。

今はイスパニア語の先生の話し方や仕草が似ていて

イスパニア語まで嫌いになりそうだ。

結局、今学期での単位取得は諦めた。

12歳の私は、

20歳の私がまだ苦しんでいることを知ったらどう思うだろうか。

ごめんね、まだ私は彼女に縛られてるよ。

最近、不適切な指導として教師が処分されたというニュースを見て、

私だけじゃなかったんだとほっとするような、

悲しいような。


大好きな『ミステリと言う勿れ』の広島編で、

主人公の整くんの

「小さい子どもの心は固まりきっていないセメントです」

という台詞がある。

私のセメントには大きな歪な穴があき、

どうやらそのまま固まってしまったようだ。

この穴を、

憎まずに、

責めずに、

抱えて生きていかなければならないのだと思い、

たまに絶望する。







(創作大賞応募のため、加筆修正し、再投稿しました。)







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