私は何を買っているのか

Kindleが好きだ。めちゃくちゃ便利だから。

電子書籍に手を出したのは、留学中のことだった。日本の大学の担当教諭から連絡が入ったのだ。「卒論のテーマを決めてください」と。
その当時、私は帰国後留年して卒業するのか、ストレートで卒業するのかを決めていなかったため、気を遣った大学の先生がストレートでも卒業できるように卒論準備を促してくれたのだった。しかし、テーマ選定をしようにも、参考書籍が一切ない。卒論では漠然とサルトルをやろうと思っていたが、いかんせんサルトルについての知識は無。サルトルの祖国であるフランスに留学していたが、私の語学力では哲学の原著には遠く及ばない。迫る提出期限。
そこでたどり着いたのが、電子書籍だった。最初は「本は紙じゃないと」とテクノロジーに斜に構えていた私も、背に腹は変えられない。それが私と電子書籍の出会いだった。

私はあっという間に電子書籍の虜となった。留学中、ネット回線はwifiのみで過ごしていた私には、DLしておける電子書籍は移動時の唯一の娯楽だった。漫画も小説も入れた。その時間を使ってフランスの日常風景に耳をすますことだってできただろうに、私は日本人の妄想に溺れていたのだ。

帰国後も、私はKindleを愛用していた。
Kindleはいい。何がいいかと言われると、まずすぐに続きが読めることだ。続きさえ出ていれば、1秒も待たずに読むことができる。本屋にも、図書館にも行く必要がなく、アマゾンお急ぎ便よりもはやい。電子書籍の1番の魅力はこれだろう。紙とインクが欲しいのではない。私はその情報が欲しいのだ。
付随して、本を持ち歩く必要がないことだ。大学生になってからめっきり本を読む習慣が薄くなったのは、小説より興味を惹かれるものがあったからだと思っていたが、実際は本を持ち歩く手間や労力が想像よりも大きかったからだろう。成長するにつれ、どんどん持ち歩く鞄が小さくなっていった。最後には、文庫本どころか財布すら入らない始末だ。それでも、スマホだけは持ち歩かないわけにはいかない。だから私は文庫本をスマホに入れたのだ。
すると、引越しの際に持って行く本も減った。いや、本は十分に多い家なのだが、最近では本を買う前に「これは紙の本で買う必要があるのか?」と必ず一度心の中で問うようになった。そうすると、大概「Kindleの方がいいんじゃない?」と心の中の私が返すのだ。だって、紙の本より読みやすいから。

こうしてみると、まるで紙の本アンチの意見のようだ。紙の本は重いし、持ち運びづらいし、届くまでに時間がかかるし、劣化する。存在する、というのが全てデメリットのように感じられる。

しかし、私は決して紙の本を全て捨てようとも、自炊して電子書籍化しようともおもわない。いや、あえて紙の本を買うことさえある。「Kindleの方がいいんじゃない?」と問いかけても、尚。だって、存在するから。

そうだ。紙の本は存在する。
電子データは、信用ならない。いつ何が起きて、読めなくなるがわからない。存在しないから。
もちろん、そう簡単に読めなくなるなんてことはない。電子書籍の配信停止で有名な作品といえば、『アクタージュ』だろう。あの作品は、電子書籍の配信停止(=新規購入停止)されてしまったものの、すでに購入してある分に関しては問題なく読めるという。
しかし、今後どんな問題が起こって、電子書籍が読めなくなるかわからない。天災のような出来事を恐れて私は、紙の本を買う。もう持っている電子書籍の存在として、紙とインクを買う。

でも、私は一体何を買っているのだろう。たまにわからなくなる。
現代はどんどん余計なものが削ぎ落とされていく。音楽からはCDが、ゲームからはソフトが。本と同じだ。「情報」があればいいのだから、容れ物は削ぎ落とされていく。中古で売ることができないとかは、私はあんまり気にしない。もともと物を手放すのが苦手な性分だ。
それでもまだ、スマホを削ぎ落とすことはできない。音も、光も、削ぎ落とすことはできない。どこまでいっても、物質が情報を伝達する。純粋な情報は、エネルギーを必要とするのだろうか。思考だって、脳内の電気信号だっていう。じゃあ私は、この電気信号にお金を払っているのだろうか。違う気もする。でも、考えることもなければ、情報が生まれないなら、それはやっぱりただの電気信号ではないのか。だけど、雷には恐ろしい雷鳴と激しい光しか、ないじゃないか。雷にサルトルは語れない。でも、じゃあ、そもそも、情報とはなんなのだろう。結局情報は存在するのだろうか。

わからない。一体私は、何を買っているのだろう。

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