金で買える美

金曜日、休みを取って髪を切った。ヨルシカのライブで東京に出てきたので、予定より少し早かったけれど切ってしまうことにしたのだ。
「後ろの髪の毛は、いつもみたいに任せます。あ、でも、前髪が鬱陶しくて。アイロンもうまくかけれないので、パーマとかかけることってできますかね」恐る恐るそう依頼すれば、いつもお願いしているお兄さんは快く了承してくれた。重たかった前髪を、今やスタンダードとも言えるシースルーにするため、8月の末から伸ばし始めた前髪が特にうざかった。それから、思っていたよりもシースルーがうまくいっていなくて、可愛くないと思っていたのだ。ポイントパーマをかければ、あれだけこちらに干渉してきた前髪がスッといい感じに決まった。ヘアバームをつければ、26年閉ざされていた前髪はいともたやすく綻んだ。¥10,000-、明るい視界は簡単に買えた。

土曜日、ライブの前に香水を買った。昨年気に入りの香水は買ったはずなのに、なんだか新しい香水が欲しくなったのだ。友人にその旨を伝えれば、近くにJo MALONEがあるね、と言われた。気が付いたら立ち寄っていた。「柑橘系と、それからスパイシーな匂いが好きです、今使っているのは、MANDALIN & IMMORTELLEの、香水なんですけど」「なんと?」「ま、マンダリン アンド イモーテルです、たしか」「バジル、とかではなく?」「いや、マンダリンとイモーテル?読みかたちがうのかな」わずかな押し問答。イモーテルの読み方が違うのだろうか、間違えているのかも、と思えばドキドキした。私は、こういう小さな間違いがひどく苦手なのだ。間違えるくらいなら、知らないふりをしている方がマシだと思う。だけど、一度口から出してしまえばもう引くこともできない。「あの、ロクシタンのやつなんですけど」さしたることではない、お兄さんは、Jo MALONEの香水だと思ったのだろう。苦し紛れにそう言ってみれば、「ああ、なるほど」とお兄さんは穏やかに頷き、あれよあれよと3種類ほどのムエットを私にくれた。知らないはずなのに、どこか懐かしい。どれも好きな香りだった。お兄さんはその中から2種類で迷っていた私の右腕にLIME BASIL & MANDARINを、左腕にBlackberry & Bayをかけてくれた。黙って右腕左腕交互に嗅ぐ私は、おおよそJo MALONEにふさわしい淑女ではなかった。お兄さんも少し困った顔をして友人の方を見ていた気がする。友人が間を持たせるために質問をしている間に、香水を10往復ほどした私はようやく、右腕に決めたのだった。「当店舗ではキャップに刻印もできますよ」断る理由もなかった。名前を彫り込んでもらえば、それはもう私だけのLIME BASIL & MANDARINだった。甘くない、海風のようにきりりとした香り。¥8,800-、新しい雰囲気の私を買った。

日曜日、ここまできたらとマツパをした。生まれて初めてのマツパだった。思い立ってHot Peppar BEAUTYで予約をした。昔から、どうもマスカラが下手だった。すぐにまつげが落ちてきてしまうのだ。私は典型的な一重だ。妹は一重を苦にして整形に手を出した。正直なところ、羨ましい。私にはまだその度胸がないから。だから、まずは手短なところから攻めてみようと思っていたのだ。幸いなことに、私はまつげが平均よりも少し長い。だから、もしもこのまつげのカールをロックすることができれば、少しは目も開くのではないかと思っていたのだ。しかし、マツパは5000円くらいするイメージがある。安くない。服の買いすぎで財政危機の私からすれば、そんなわずかなお金さえ惜しい。そういうわけで、ずっと探しもしていなかったマツパの料金を重い腰を上げてようやく検索することにした。可愛くなりたかった。そしたら、思ったよりも安く施術してくれるお店がいくつもあった。梅田ならすぐに出ることができる。朝10時、予約を入れた。そして午後2時、届いたばかりの洋服を纏って家を出た。まるで中世ヨーロッパの貴族のようなブラウス。背筋を伸ばせば、ジャボが揺れた。前髪はバームのつけすぎでややべったりしてしまったけれど、視界はしっかり開けていた。くるぶしに忍ばせた香水は、遠くから新しい私を応援していた。一昨日までの何倍もかわいい私に見えた。梅田駅で迷子にならなければ、もっとかっこよかった。時間に余裕を持って出発したおかげで、なんとかサロンにたどり着いた私は、空きテナントばかりのビルの中をぐるぐると回らされながら、同じビルの別区画で施術をうけた。担当してくれた方が、前の職場にいたパワハラ野郎と同じ名前だったから胃が痛くなったけれど、なんてことはない、優しいお姉さんだった。「ナチュラルと根元からぱっちりのどちらにしますか?」と言われたが、正直どちらがいいかわからなくて、フリーズしてしまった。しかし、私も大人の女、「初めてなんですけど、どっちが人気ですか」と聞くことができた。普通だ。普通に対応することができた。この「普通」の質問ができるようになるまで、26年かかった気がする。「そうですね、半々くらいですけど、ナチュラルの方が多いですかね」「じゃあ、ナチュラルで」自然だった。元オタク女が、マツパサロンで普通に会話ができた。嬉しかった。さらにそのあと、カールのつけ方を「ぱっちりと」と依頼することができた。カールがしっかりついた方が、目がしっかり開くと思ったのだ。本当は、根元からぱっちりにしたい気持ちがあったのだが、そこまですると、「え、この人ぱっちりしたいんだ」と思われるのが私は本当に苦手なのだ。自意識過剰なのはわかっている。だけど、どうしても私は「え、この人似合わないのにこんな風になりたいんだ、この○○が似合うのは美少女だけなのに、身の程知らず」と思われるのが、どうしても、どうしても嫌なのだ。被害妄想の行き過ぎ。だけど、きっとこれは、私が世界を呪った分自分に返ってきているのだ。そうやって、あの人似合わないな、とか心の中で思ってしまうたびに、そうは思われたくない、と思う私が、やってみたいと思う私を押しとどめるのだろう。身の程なんてない、と言葉にするのは簡単でも、自分が世界にかけた呪いほど頑強な呪いはない。それでも、そんな私を乗り越えて「しっかりカール」をオーダーすることができたのは、開けた視界と、遠くから応援してくれる新しい私が可愛かったからにちがいない。目を閉じている間に行われる施術は心地よくて、気がついたら口が半開きで眠ってしまっていた。マスクの時勢で本当によかった。「終わりましたよ」かけられた声に、即座に反応するスキルは、半目開きの労働時間をごまかすためのテクニックが生きた。起き上がる椅子。少しまぶたがパリパリとした気がする。手鏡が渡される。そこに写っていたのは、瞳がしっかりと開いた、意志の強そうな女性だった。私の目か、なんて、びっくりした。格好よかったのだ。いつもの眠そうな一重が、まさかこんなにぱっちりと開くと思わなかったから。もしかしたら、施術の影響でセンターパートになってしまった前髪の影響もあったかもしれないけれど。¥3500-、意志の強い瞳を買った。

そうして月曜日、今まで一度も楽しみじゃなかった出社にウキウキした。朝はいつもよりも30分も早くに起きれた。髪を整えて、化粧をキメる。まつげが変わったので、アイラインの書き方を変えたら、数年ぶりにアイラインを失敗して笑ってしまった。新しい瞳では、どうやってアイラインを引くのが最適なのだろう。失敗にすらワクワクした。仕上げに香水を足元にひと吹きした。先週と同じ服を着る。職場はおじさんだらけで、髪を切ったことに気づかないだろう。そういう機微のない人たちだというのはわかっている。先週と同じ人間が、同じ服を着ているのだ。何も変わらないように見えるのだろう。だけど、私から見た私は違う。約2万円で、私は自信を持てる私を買った。いや、本当は2万円だけではなかったのかもしれない。「似合わないかもしれない」という、私が世界にかけた呪いを一つ一つ解いていく覚悟が、私が可愛いと思える私を連れてきてくれたのだ。開けた視界が、かっこいい香りが、意志の強い瞳が、それぞれの、他でもない私が、私の背中を押したのだ。

週末、美を金で買った。その背中は、私が押した。

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