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まらフェス2022の思い出

開演前から、私は胸いっぱいだった。
日比谷公園大音楽堂のキャパシティ3053は満席で、どこまでもまらしぃくんが大好きなファンで埋め尽くされていたからだ。

照りつける日差しは木陰を作り、夕方に向かう風が穏やかに吹いていた。目敏くアルコールを見つけた私と友人は満遍の笑みで栓を開けた。夕方、屋外、アルコール、高揚感。この時間が一生続けばいいと思った。まらフェスが始まらなければいいのに、とさえ思った。
私はずっと待っていたのだ。始まるのが惜しくなるほど、ずっとずっとこの時を待っていたのだ。

それはきっと、私だけじゃないだろう。野音にいた誰もが、この時を心待ちにしていたに違いない。
疫病禍になる前から、あるいはその後からまらしぃ君を大好きな、野音にいた誰かにとっては、きっと私よりも心待ちにしていた1日に違いない。
だってそうだろう。一体何人が、絶望に打ちひしがれながらまらフェス大阪のチケットを払い戻して、どれだけの多くの人が断腸の思いで武道館ライブを諦めたことか。
人生の大半は、辛くてつまらない毎日でできている。そんな日々をなんとかやり過ごすために私たちは宝石ように輝かしい1日を目指して生きている。それなのに、それを目の前で奪われたことが、あるいは自らの責任を果たすため、大切な人のため、這ってでも行きたいライブを自ら諦めることが、どれだけ辛いことだったか。
こんなに辛いなら、いっそ好きなものなんてなければいいのにと思うほど、辛くて苦しい時間を過ごした私たち、あるいは彼らにとって、ようやく気兼ねなくライブを楽しめる、今日という日は本当に特別な日だったのだ。

5時を少しすぎた頃、まらしぃくんはにゅっと現れた。そして1曲目が始まった。
Love Pianoは、私がずっと野音で聴きたいと思っていた曲だった。ホールでも、幕張メッセでも、オンラインライブでも、武道館でも聞いたけれど、野音で聞くLove Pianoは、やっぱり特別だった。
気がついたら涙がこぼれていて、鼻を啜るような音がどこからか聞こえてきた。ああ、ここには同じ気持ちになる人が、やっぱりたくさんいたのだ。それでまた、私は嬉しくなった。

まらしぃくんが「こんにちは」と言った。私たちは拍手で返した。本当は、「こんにちは」と返したかった。もっと言えば、このマスクも外して笑いたかった。疫病禍は終わっていないのだと、もどかしくなる。

2曲目が始まった。どこまでも飛んでいくような音色に、私は夢中になってまらしぃくんを見つめた。ネイティブフェイスも、何回も聞いてきたのに、一等特別に感じた。
千本桜のハンドクラップは、木立に反響して、不思議なくらい大きく聞こえた。嬉しかった。私は、この大好きの共鳴が大好きなのだ。私はみんなに混ざり合い、まらしぃくんの音楽の一部になる。オンラインではありえないし、間引きされたライブ会場では、空間の広さに負けてしまう。
壁のない野音で、木立に反響するほど大きなハンドクラップが、私は嬉しかった。

演奏中、ちらと座席を振り返った。座席は満員御礼で、立ち見をしている人もいた。私の前にも後ろにも、席数いっぱい観客がいた。野音は、記憶よりも小さくて、決して「前方」と言えない私の座席からもまらしぃくんがよく見えた。
それでも、ようやく終わった収容人数と座席間隔の制限撤廃のおかげで、3000人近い観客みっちり座席に詰め込まれ、一様に目を輝かせてハンドクラップを送っている。
その光景に、私はまた涙がこぼれた。私がみたかったのはこれなのだ。

1年前、1万人以上を収容できる武道館で、まらしぃくんはその半分以下の観客数でライブをした。
私は2階の最善席からそのライブを見た。
まだまだコロナの治らない緊急事態宣言の発令された東京に、ライブに来られた人はファンのうちでもごく一部だったと思う。多くのファンはオンラインライブで、あるいはオンラインすらリアルタイムで見られない人もいたかもしれない。
武道館という、アーティストにとって特別な場所で行うライブなのに、スタンド席の半分以上が完全閉鎖され、座席は1席おきの、ガラガラの武道館ライブは、異様としか言いようがなかった。
私はあの日、現地に行けた幸運なファンだった。まらおバンドお披露目ライブ、まらフェス大阪が中止になって、ちょうど一年ぶりのライブは、それはもう待ち遠しくてたまらないライブだった。
それなのに、私は今日のような多幸感に包まれはしなかった。断腸の思いであのライブをあきらめたファンからすれば、贅沢にも程がある話なのだろう。それでも、私は寂しかった。久々のライブは楽しかったが、ガラガラの座席はどうしようもなく寂しかったのだ。
だって私は知っているから。本当は、武道館だっていっぱいできるほどたくさんのファンがまらしぃくんにはいるのに、画面越しに、あるいは心の内で悔しい思いをしながらライブを見ている人がいることを知っているから、だからどうしようもなく寂しかったのだ。

だから今日、ようやく満席になった会場を見て、私は堪らなく嬉しかったし、木立に跳ね返るほどのハンドクラップを叩いて幸せだった。熱中症になりそうなほどの日差しも、土砂降りよりもよっぽど特別な日にふさわしい。まだまだ制約は残るけど、ようやく私たちは、あの日から日常に戻り始めることができたのだ。

演奏が終わると、まらしぃくんが立ち上がって話し始めた。靴紐が解けたまらしぃくんがかわいかった。まらしぃくんがウロウロしながらMCをしているな、と思っていたらドラムやベースが出てきた。さっそく出てきたな、とニヤニヤした。
何度かまらしぃくんが演者よりも目立つスタッフに「もういいですか?」と聞いて、何度か「まだです」と言われ、ようやくGOがでると、tabclear店長とdrmさんが出てきた。齧り付くように双眼鏡を覗き込んだ。久々の店長は、あまり変わっていないように見えた。実家のような安心感のある顔ぶれ。待ち望んだまらフェスが始まったな、と思った。

立ちあがれるのかと悩んだが、誰も立ち上がらないので渋々座ったままペンライトを振った。やっぱりダメなのかな、そういうのは。と一瞬不満に思ったけど、腹の底に響くようなベースの音にどうでも良くなった。ベコベコと響くベースの音色は、懐かしいdさんの音色だった。奇怪な動きで近寄るdさんを見ないようにする店長の視線の動かし方も、なにもかも懐かしかった。
彼らが3都市ライブをしていた頃、私は彼らの音色に熱狂して、脱水間際まで飛び跳ね腕を振っていた。
ホールのライブも好きだけど、本当はライブハウスのライブが好きだった。飛び跳ねる、腕を振る、体力が0になるまで動き続けるその間、私は確かに音楽の一部になる。大好きな音楽と、ステージの上の演者と、体力の限界のことだけしか考えられなくなって、その瞬間、私を取り巻く問題の全てがどうでも良くなる。「このままじゃダメだ」とか「このままの私ではいけない」とか、そういう「私を見る私」が悉く外を向く。ただライブのことしか考えられなくなって、全ての悩みから解放される。だから私はスタンディングのライブが一等好きだった。

ペンライトを振る、そしてステージを見る。もっと飛び跳ね、体を揺らしたかった。けれど、飛び跳ね、身を捩らせ、寝そべりベースを弾くdさんや、それを見ないよう、しかしたまに目線を送る店長とまらしぃくんが、たまらなくあの日のままだったので、気がついたらそんなことも忘れ、必死にペンライトを振っていた。

ろじえもの出番はいつだって短すぎる。たった3曲で、彼らは退場してしまった。ついでにまらしぃくんもぬるっと帰っていくから、少し困惑した。2台の電子ピアノが向かい合わせに並べば、誰が出てくるかはすぐにわかった。

まらしぃくんとH ZETT Mさんが出てきた。ゼトさんは、いつもどこかおとぼけたようなフリをしていて、ピアノを弾き出すと急にキリッとした表情をしだすものだから、天才とはこういう人のことを言うのだなと勝手に思っている。
まらしぃくんを知るまで、私は全くピアニストに興味なんてなくて、間違えてもピアノに明るいなんて言えないけれど、それでもまらしぃくんのピアノとゼトさんのピアノを見ていると、弾き方が全然違うとわかる。
ライブに来るとついついまらしぃくんの表情ばかり見てしまう私も、この時ばかりはスクリーンに映し出された、2人の指先に魅入ってしまった。


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