人の顔を認知する
数年前、知人宅で認知症の方と話す機会を得ました。認知症の方を仮にAさんと呼びます。僕にとっても古くからの知り合いで、親しくさせていただいていました。1時間ほど、知人とAさんと3人で話をしていると、Aさんがある瞬間に、僕の顔を見て、別の方の名前で呼びはじめました。「え?」と聞き返すと、Aさんは、「〇〇でしょ? あれ違った?」と恥ずかしそうに笑いました。僕は戸惑いながら、「細川のつもりですけど、どっちでしょうね」と応えていました。
ほろびてが再始動(2015年)してからずっと考えていることではあるのですが、人の記憶や認知というのはどこに軸があるのでしょう。
誰かの顔を認知したり、感情を覚えたりすることは全て個々人の脳が行っているらしいのですが、自分は一義的には自分を通してしか周囲を知ることはできません。自分が感じることを、同じく他の人も感じるとは限らないということは、他者と触れ合わないと到底わからないものです。
ときどき、Aさんに対してどう接するのがよかったのかと考えることがあります。強く訂正するのがよかったのか、呼ばれた人として応対するのがよかったのか。
昨年読んだ「マンガ認知症」(ちくま新書)に”認知の歪みと感情はイコールではない”と描いてあり、納得させられました。つまり、認知症の方は、「違うよ〇〇だよ」と、自分の認知を否定されることが重なっていくので、どんどんしゃべるのが怖くなってくる・悲しくなってくる・申し訳なくなってくる、というのです。認知がずれていても、感情はずれずに現時点にある。そういったもどかしさが心のなかでぐるぐる回って増幅されてしまう。
相手に否定を使わないで対処するには、認知と感情を結びつけず、感情をつなげたまま、うまく話をスライドさせるのがいいようです。
この先いくらでも直面しうる問題ですし、自分が将来そうなるかもしれない。だから、自分の認知だけ、経験則だけでは全く足りないんだなあと引き続き思うのでした。
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