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こんびに

遣る瀬無い気持ちを、知りたくなかったことも、このご時世簡単に可視化されるから怖いよね。
見なきゃよかったを何度繰り返せば正解にたどり着けるのだろう。カンニングしたい。あなたの美しいは正しい、あなたの可愛いは希望だよってちゃんと知ってくれてる人はいるけれど届かないことの方が多くて切なくなる。
わたしのこころはわたしがまもるけれど、さ。
信じるも信じないもなにも自分の目で見たものを感じろよって思うことの多さにも辟易して、心を閉じちゃった愛おしいひとのことを思えどもう遅い。
拠り所をひとつにしてしまうのは楽だけれど、ひとつにすると自分が壊れるのも早いということを知っておいた方がいい。多方面に寄りかかれる方が強い、が、それがそう簡単にできないのもまた事実ではなかろうか。大丈夫になんかなれないまま年が暮れていくのを眺めている。
10月。
自分が所謂「ダメ」状態である、エラーが発生していることを確認するために息をするのが疲れる季節、今年はまだ30度を超えていていよいよ地球が終わってしまうのかと思い心がまたひとつ死ぬ。こんなことで心が死ぬ感受性の持ち主でよかったな、なにも感じないよりましだろう。このこころさえもカンニングで正解を導き出したい。自分に起きるエラー及びバグなんてひとつも許せないのだから。

ひとの子どもを愛せないとゆうバグ。

突然本題に入るがわたしのパートナーには兄と姉がおり、兄の方は子どもが2人、男の子と女の子がいる。とても元気でとてもかわいい。
わたしは昔から子どもが少々苦手だ、それは嫌悪ではなくどう接したらいいのかわからないというのが一番にある。傷つけたらどうしよう、怖い思いをさせてしまったらどうしよう、泣いてしまったら?どうすれば。わたしは自分が子どもでありながら子どもであったことがないため、どうすれば楽しいのか嬉しいのか喜ぶのかがわからないのだ。義実家に帰ると出迎えてくれる2人の子どもに、「わたしが愛されていないというのにひとの子なんて愛せないよ」という感情を抱いてしまう。とても天真爛漫で屈託のない笑顔に困惑するし、子ども扱いができず普通に会話を試みるため、つまらないひとだと思われコミュニケーションは破綻する。ごめんねこんなのが親族(叔母)で。わたしの知らない子どもという概念がそこに存在し(それはとても斬新で美しく眩しすぎてすこし恐ろしい)、ああわたしもこうすればよかったのかな、なんてぼんやり考えてもう戻らない時間を愛されなかったことを、なきものにしていた感情の蓋を開けてしまい突然わたし自身が子どもに返ってしまうのを止められない、ああ無情。
同情するなら愛をください、という混同を発症。(平成1桁でごめん)
そうやって騙し騙しふんわり相手をしてニコニコしているととてつもなく疲れる、自分の中にないものを捻り出している時間なのだから当然なのだけれど、そもそもわたしはいつまで騙し騙し生きなければならんのだ。
脱線した。そうじゃなくて。
ひとの子をかわいいと思うだけでなく愛おしいと思ってみたいんだ。自分が親になったらわかるよとか平然と言われるけど(義実家の人にではない悪しからず)、わたしは身体の問題で親にはなれない。なのでせめて、せめて甥と姪くらい愛してみたい、それだけなのに儘ならなくてやり切れない。ごめんね、うまくやれなくて。

感情はコンビニエンスじゃないから売れないし買えなくて、自分で悩み考え試行錯誤しながら手に入れるものだからこそ尊いし、可視化できるツールに殺される時代は飽きたし終わればいい。でもコンビニに立ち寄るような気持ちでどうかわたしを愛してくださいと求めてしまうのは生きてきた業の深さときっと誰でもよかったあの頃の浅はかなわたしが死んでいない時空の狭間にいまもいるからなのでしょう。
許してなんて言わないからどこにも行かないでくれ。

誰かの、あなたの、コンビニで居させて。

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