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執筆経験ゼロの私が、編集のプロにボコボコにされて、文章への向き合い方を学んだ話
こんにちは。Pomalo データサイエンティストの岩井です。
今回は、執筆経験がない私が、編集のプロに文章添削を受けて気づいた学びについて共有したいと思います。
文章作成の訓練を受けていない方、あるいは文章作成に苦手意識を持つ方々にとって、この内容が少しでも有益であれば幸いです。
はじめに
当社は「編集力」を強みとするスタートアップ企業です。
しかし、データサイエンティストである私にとって、「文章作成」は日常業務からかけ離れており、まして、外部向けに自分の文章を公開するという経験は今まで全くありませんでした。
ところが近頃、会社の広報戦略の一環として、メディアやnoteを通じて自身の文章を公開する機会が増えてきました。
これらの文章は、構成や内容こそ私が考案していますが、公開前に必ず雑誌編集長経験を持つ澄川による綿密な添削を受けています。
それぞれの記事は、公開までに「初稿作成(私)」→「添削(澄川)」→「修正(私)」→「再添削(澄川)」→・・を複数回繰り返すという形で作成されています。
記事に対する添削の内容は、文章の構造から細かな語法に至るまで多岐にわたり、大抵の場合、原稿は赤字コメントだらけになって返却されます。
正直、当初は(普段の読書量はそれなりに多いため)自身の文章力に一定の自信を持っていましたが、この経験を通じて、その認識が甘々だったことを痛感しました。
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この添削という過程の中で、文章に対する根本的な「向き合い方」について大きな学びがありました。
本noteでは、細かな文章技術やテクニックではなく、「文章作成に対する向き合い方」に焦点を当て、添削を通じて得た気づきを共有したいと思います。
とても恥ずかしいですが、実際に自分が添削でもらったコメントを何個も載せています(かなりボコボコにされています)。
本題に入る前に・・日本の国語教育の影響のはなし
(自分を含め)多くの人々が文章への向き合い方を誤解している背景には、「国語教育」の影響があると考えています。
(自分も含め)多くの人にとって、「文章を書く」という経験は主に学校教育の中でなされており、そこでの経験が後々まで強い影響を及ぼしているのではないでしょうか。
国語教育における文章の扱い方には、以下のような特徴があります(と考えています):
1. 文章は能動的に読まれるものという前提
・教科書の文章は、難解であっても熟読と深い解釈が求められる
・自作の文章(作文)は誰かが真剣に読んでくれるという期待
2. 難解な内容や表現が重視される傾向
・教科書には複数回の読解に耐える名文が多く掲載される
・感想文や小論文では、平易な内容よりも複雑な論旨が評価される傾向がある
これらの特徴は、「読解能力を鍛える」という意味では正しいかもしれませんが、実社会での文章作成において必ずしも適切ではありません。
私たちが普段触れる文章は、書籍やWebの記事を含め、文章は読んでもらえないのが普通であり、かつ、何度も読まれることはほとんどありません。
ということも踏まえつつ、添削を通じて得た3つの重要な気づきについて詳述していきます。
気づき① 自意識を捨て、読者に寄り添う
編集者の視点は、想像の100倍、徹底的に読者に寄り添ったものです。
以前の私は、文章を「伝えたい内容を装飾するもの」と捉えていました。
例えば、「熟達した人も間違える」という概念を表現する際、ことわざを引用することで文章を装飾し、深みを持たせることができると考えていました。
日本語の「河童の川流れ」や「弘法も筆の誤り」程度であればまだしも、
さらに踏み込んで、スペイン語の「最高の書記でも時にインクの染みを作る(El mejor escribano echa un borrón)」や、フランス語の「つまずかない良馬はいない(Il n'est si bon cheval qui ne bronche)」といった、一般的にはあまり知られていない表現まで持ち出していました。
これらの珍しい表現を用いることで、読者の興味を引くことができると思い込んでいたのです。
しかし、現実の読者は書き手の知識披露に対して寛容ではありません。文章を読むには労力と時間を要します。特にSNSが普及した現代では、読者の離脱は一瞬で起こります。
文章を作成するとき、往々にして、「自分はアホだと思われたくない」「知っていることを(全て)書きたい」という自意識から、必要以上に(身の丈に合っていない)難解な表現を選択してしまいがちです。
しかし、読者にとっては、そのような凝った表現は「面白い」のではなく、むしろ「邪魔」なのです。
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「内容(視点)の独自性」は重要ですが、「文章表現の独自性」は必要ありません。表現は可能な限り平易にし、滞りなく読ませないといけません。
自己顕示欲・不要な美学・文才への憧れを捨て、徹底的に読者の立場に立って文章を作る意識が大事です。
気づき② 考えていることをそのまま書かない
残念なことに、日常的な思考をそのまま文章化すると、ほぼ間違いなく「何も伝わらない」文章ができあがります。
他人に伝わる文章を書くことは意外とかなり難しいのです。
例えば、愛犬の魅力を伝えようとして「可愛いし、もふもふしているし、特に寝姿が愛くるしい」と書いたとしても、それだけでは読者に十分に伝わりません。
効果的に伝えるためには、具体的な描写を加えたり(「大きな瞳でじっと見つめてくる姿に、思わずキュンとしてしまう」)、対比を用いたりする(「猫の気まぐれさや独立心の強さとは対照的に、犬は忠実で愛情深い」)など、文章としての論理構造を優先し、それに沿って思考を整理する必要があります。
確かに、個人の思考は主観的には「絶対的な真実」かもしれません。(自分は本当に心から「可愛いし、もふもふしているし、特に寝姿が愛くるしい」と思っているのです)。
しかし、このような思考をそのまま文章化すると、往々にして非論理的で支離滅裂なものになってしまいます。そこで重要になるのが、これらの主観的な思考を、作文を通じて客観的に理解可能な形式に落とし込むプロセスです。
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このプロセスは単に文章を整えるだけではありません。実は、思考を文章構造化することで、自分の考えがより明確になるという副次的効果もあります。
つまり、文章として整理する過程の中で、それまでまとまりのなかった思考が具体的な概念(言葉)として形を成していくのです。
文章化することで思考が整理され、整理された思考がより良い文章を生み出す。この循環的なプロセスが文章作成の肝であると思いました。
気づき③ 読者を「トロッコ」で運ぶ
読者の興味を引くには、文章の出だしは極めて重要です。
特に、情報過多の現代では、タイトルや冒頭部分で少しでも興味を引けるかどうかが、読まれるか否かを決定づけます。
しかし、魅力的な出だしで読者を引き付けることだけでは不十分で、引き付けた読者を文章の最後まで導くことも同等に重要な課題です。
この「読者を導く」ことは、添削を受ける中で、まるで読者をトロッコに乗せて目的地まで運ぶようなものだな、と思いました。
まず、読者をトロッコに乗せる(読み始めさせる)ことが必要です。そして、滑らかに最後まで運ぶ(読み終わらせる)こと、これが文章の目標となります。
この「読者を運ぶ」過程において、文章は平坦すぎてはいけません。
かといって、急激な展開や予期せぬ方向転換も避けるべきです。
理想的なのは、「一見すると〇〇のように思えるが、実は△△である」といった、ある程度予測可能でありながらも興味を失わせない展開を用意することです。
これにより、読者は安心感を持ちつつも、期待感を抱きながら読み進めることができます。
私にとって、この過程はジェットコースターのようなスリリングなものでも、新幹線のような高速で直線的なものでもなく、まさに「トロッコ」のイメージでした。程よい速度で、時に緩やかなカーブを描きながら、目的地に向かって着実に進んでいくような感覚です。
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つまり、読者を「飽きさせず」かつ「酔わせない」文章(レール)設計が重要です。
このレール設計が上手にできていないと、読者に最後まで読んでもらえません。
しかし、文章に不慣れな人にとって、この「レール」が適切に敷かれているかどうかは判断しにくいものです。
そこで効果的だったのが、完成した文章を音読したり、他人に読んでもらう方法でした。特に音読は意外にも効果的で、口に出すことで、文章の流れの不自然さや読みにくい箇所が明確に浮かび上がってきます。
まとめ
本稿で解説した内容は、文章作成の基礎中の基礎に過ぎません。
しかし、この基礎こそが最も重要だと考えています。
世の中には「文章術」や「表現テクニック」を解説する本は数多くありますが、文章に向き合う根本的な姿勢について焦点を当てたものは意外に少ないのです。
小説家でも編集者でもない私のような者は、まず「守破離」の「守」の段階、つまり基本的な姿勢を徹底的に身につける必要があります。
さて、ここで紹介した3つの気づきに共通しているのは、「読者に確実に何かを伝えたい」という強い思いです。
澄川は、文章を「ラブレター」を例に説明することがあります。
ラブレターの目的は、単に文字を読んでもらうことではありません。
文字を通じて、書き手の思いや感情を相手の心に届けることこそが真のゴールです。
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添削という経験を通じ、
「あの本も、あの広告も、世の中に出ている文章の多くは、『誰かが書いたラブレター』である」という事実を、身をもって実感しました。
たった数行の文章に対して入る大量の赤字。これは、無考慮に書かれた文章が「意図不明確」で「読解の妨げ」であることの証明です。
違和感なく、滞りなく読み手の心に浸透していく文章は全て、顔の見えない誰かが、読み手のことを熟考して書いたラブレターなのです。
この記事を書いた人
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