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イディッシュ語と境界性

 イディッシュ語で出されている新聞に「フォアヴェルツ」という新聞がある。今では数少ないイディッシュ語で書かれた新聞である。
 たまたまオンラインである記事を読んでいたのだが、どうしてもイディッシュ語で読めない綴りに出くわした。
 イディッシュ語であるはずなのに読めない。何のことを言っているか分からないと思うが、話をさせて欲しい。

1.イディッシュ語の特徴

 イディッシュ語は母体がドイツ語の一方言であるため、ドイツ語を理解できる人ならば音で聞く限り、「あれ、ドイツ語かな?」と抵抗なく感じることだろう。また、ドイツ、スイス、オーストリーにもいろいろなドイツ語の方言があるが、その方言によっては(100%とは言わないが)イディッシュ語を理解できてしまうこともあるようだ。
 ただし、書き言葉は知識なしには理解できることは絶対にない。これがイディッシュ語が他のドイツ語の諸方言から切り離された独自性を保持している所以の一つである。それは、ドイツ語はラテンアルファベットで書かれるが、イディッシュ語はヘブライ文字で書かれる、ということだ。
 その上、もっと学習者を苦しめることをイディッシュ語はやってのける。標準のイディッシュ語はヘブライ文字を改良し、母音も含めてあたかもアルファベットのように書いてある通りに読めば読めるようになっている。しかしながら、ヘブライ語由来の単語は「そのまま」書かれたり、登場したりするため、読んでいる最中にイデイッシュ語の読み方を逸脱した綴りが頻出する。例えばフォアヴェルツの記事から一節引用しよう。

.ס׳איז אויך דאָ אַ סך צו רעדן וועגן דער שטאָטס תּקופֿות פֿון קאָלאָניזאַציע
S’iz oykh do a sakh tsu redn vegn der shtots hakupah fun kolonizatsie.
(この町の植民地時代について話すことはたくさんある)
 ※יונגע ייִדישיסטן פֿאַרברענגען אַ סוף־וואָך אין אַמסטערדאַם

 ここで太線にしたものはイディッシュ語の綴り通りに読めない単語だ。これらは全てヘブライ語に由来する単語であるため、丸暗記しなければならない。

2.境界性

 学者でもない僕が何かを提唱するのはおこがましいが、この手の現象を「境界性」と僕は呼んでいる。例えば鈴木董著『文字と組織の世界史』では使用する文字により、「文字世界」という観点から世界史を眺める態度をとり、世界史や文明を分析しようと試みていた。しかしながら、僕はこのようなマクロな観点ではなく、イディッシュ語の持つーある意味ではこれも「イディッシュカイト(イディッシュ性)」と呼べるようなーミクロな観点から文明や文化を眺めたいのである。そして、そのような特性を持つものは決まって境界性がある。イディッシュ語についていえば、ドイツ語本来が持っているドイツ語のヨーロッパ性とヘブライ文字やユダヤ教に自己同一性を求めるユダヤ性のはざまに立つ姿勢のことである。
 このような鈴木とは異なる真逆の文明史観の追求が僕の語学オタク道を支える理由の一つなのだ。

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