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漠然とした“ゆらぎ”、深淵をのぞく


本日(2020年9月11日)のNHKニュース


人が、ゆれている。

わたしが、そう感じたのは6月後半あたりからだ。新型コロナが日本にやってきた2月、緊急事態宣言が出されていた3月4月、連休にピクリとも動けなかった5月は、そうはいっても、大まかに言って周囲はみんな元気ではあった。(*もちろん、コロナに罹患した方やお亡くなりになった方には、心よりお見舞い申し上げたい)

たしかに、会えなかったし、家庭内は殺伐と離婚風味だったのかもしれないし、経済も不安定で、漠とした不安が渦巻いてはいたけれど、みんな緊張をしていたのか、「自分が今できることを必死でやっていく」というように見えた。緊迫感があった。

しかし、6月になり、たとえば東京では小中学校がゆるやかにスタートし、街にも出勤する人がちらほらふえはじめると、空気が変わった。


人が、ゆれている。


漠とした大きな不安が減らぬまま、暮らしだけがちょっぴり緩んだ結果、混乱し、自分の立ち位置や未来を、完全に見失った人が大量に発生したように思う。

ある人は、ハイになり
またある人は、攻撃的に
別のある人は、鬱々とした

そして、この不安定な地盤の、絶対に大きく動いてはいけない場面で、闇雲に走り出した。安全な方向も見極めずに、じっとしていられずに、ただ漠然と何処かへ「うぉー」と走り去った人の背中をたくさん見た。

たとえば、戦争映画のようにリアルに「うぉー」と叫んで狂って走り出す人を見ることこそなかったが、静かに狂ってしまった人がたくさんいる。

日本の、コロナなんて来る前からずっと、何をするにも困難な厳しい空気の中、ギリギリのラインで粘って普通に暮らしていた人が、おそらくコロナ禍の過程で爆ぜたりもしたのだと思う。


これまでに、自分をどうにかすることに慣れていなかったり、どうにかする手法を持っていなかったり、あるいは幸運にもこれまでは、どうにかしたことがなかった人から順に、爆ぜていく。

周囲も、自分のことに必死で、壊れる人を助けない。見捨てる。蹴落とす。


コロナ禍の本当の怖さはこれだと思う。罹患は怖い、差別も怖い。けれど、自力で困難に打ち克てない人やその弱さにつけ込む人が大量に発生し、病んだり襲ったり教われたりする世界はもっと怖い。

助ける人の手が足りないのも、医療に限ったことではない。

いつだって映画や小説はこの怖さを教えてくれているのに、実際の社会では、メディアは感染者数と経済ばかりを報じ、政治は表面を取り繕うばかりで、人間の危うさや淵をみようとしない。



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