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雨の日にだけ現れる霧のようなお話、『雨をよぶ灯台』

マーサ・ナカムラさんの『雨をよぶ灯台』を読みました。

普段、私はあまり詩を読みません。なので、詩を解釈する力もそんなに培ってないですし、そんな才能も備わっていません。そんな私がこの本を読もうと思ったのは、Titleという素敵な本屋さんの素敵な紹介文からでした。

「気持ちがふさぐ雨の日には、この詩集に書かれたことばを、ゆっくりと追いかけたい。イメージはイメージをよび、思わぬところへと連れていく。それはことばだけで作られた、重力のない建築物だ。」
(本屋Title WEB SHOP『雨をよぶ灯台』紹介文より)

読み終えて感じたのは、とにかく不思議な物語、ということでした。物語といいますか、詩といいますか。

不思議な物語と言っても、ファンタジーでは決してないと思います。描かれているのは、そんなきれいなものではないです。
現実とかなりリンクしている世界、そこから文章として浮き上がってくる世界はただただリアルで息を呑みそうになります。文章からにおいが立ち上ってくるような気さえしてきますが、それらはいいにおいばかりではなくて、読者は顔をしかめます。

ごまかしがきかない。自らが経験したわけではないのに、自分の身に起こったことのように、ときには、痛みが、悪臭が、気持ち悪さが、こみあげてくるようです。

空気には水分を含むことができる容量みたいなものがあって、それが限界点に達して「飽和」すると、空気中に含まれることができず、水滴となるのだというようなことを聞いたことがあります。私の個人的な印象としては、この物語はそんな「飽和」のような、空気中から飽和した水滴のように、現実から飽和した世界なのではないかという印象を受けました。その水滴ひとつひとつによくよく目を凝らして見ると、それぞれに違う映像が映り込んでいるような。

「飽和」とも思えますし、空気からはみ出した「しみ」のようにも思えます。それが、どんどん広がっていく。そんな現実からはみ出たしみを物語を通じてどんどん収集していくと、現実を覆う透明な膜があるように思えます。その膜がしみの受け皿になっているようです。透明な膜が、現実世界ではみ出し者となってしまった者たちの居場所にもなっているのかもしれません。それが、読んでいてどこかノスタルジックで、なぜか懐かしくなる理由でしょうか。雨の日に立ち上る、何とも形容しがたいにおいのような、雨がしみこんだ服から立ち上がってくる湿気のにおいのような。そんな印象を受けるのです。

『雨をよぶ灯台』の装丁は、透明のフィルムのようなカバーで覆われていて、それがとても美しく思えます。『雨をよぶ灯台』の物語は、まさしくこの透明の覆いのようで、限りなく現実に近い世界にフィルターを当て、そこから染み出してきたものをつなぎ合わせて、不思議な世界へと飛び立っていきます。

「黄昏の瞬間 光と影が溶け合い
私たちは数秒間 銀箔の霧に包まれた」
(『雨をよぶ灯台』「新世界」より)

この本には終始この「銀箔の霧に包まれた」感覚があると思います。

「何なんだこの世界は」と奇妙な描写と感じる場面も多く、私にもっと解釈する力があれば、「これはこういう物語だ」と説明することもできるのだと思います。でも、あえてそれをする必要もないのではないか、とも思います。霧はふっと消えてしまう煙のようなもので、そこに確固たるものとして存在するものでもないと思っているからです。

中でも好きなのは、「ほんもののおとうさん」がいないときにひょっこり現れる「にせもののおとうさん」のお話。確かに子どもの頃は多少不思議なことがあっても受け入れそうなところがあります。現実に起こったら絶対怖いんですけど、それでもここで出てくる「私」にとっては「にせもののおとうさん」といる時間が楽しかったのだろうと想像できますし、「にせもののおとうさんがお別れを言いに来た」場面はなぜか切なくなってきます。

「出せ」も途中いろいろ怖いんですが、「私」が勝利した結末にいろいろ考えさせられて、「私は九条さんを愛していた」の一文がここでぐっと静謐なイメージをもって迫ってくる感じがしました。
おすすめです。

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