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優しい大人になれなかった

会社から帰宅途中の電車の中、最寄りまで30分ほどの駅で席が空いた。通勤で疲れた身にありがたい。席に着いて少し経った頃、車内でびちゃびちゃと水が落ちるような音がした。

車両内に人の動きを感じて、操作していたスマートフォンから顔を上げる。
目の前の人たちの視線の先を追いかけると、車両の床に吐瀉物の水たまりが広がっていくところだった。

車両内で誰か吐いたと理解した。
酔っ払いか体調不良だろうか。ノロとか感染するようなものじないといいけど。
自分の靴の裏は大丈夫だろうか。距離があるからとりあえず大丈夫そうか。
このままこの席で帰宅できるだろうか。

少し遅れて、とんこつラーメンのようででもちょっと違う、なんとも言いがたい不快な臭いが漂ってきた。
窓の側の人、誰か窓を開けてくれないかなと思った。

しばらく様子を伺っていると「本当にすみません。申し訳ないです。」と謝罪する声が聞こえてきた。何度も何度も謝っていた。

吐いてしまった方に連れがいて、その連れの方が謝っているんだろうなと思った。ご本人は見えなかったけどフォローしてくれる連れがいるなら良かった。
この状況に対して特にすることもなく、匂いと戦いながらスマホに向き合い時間を過ごした。

電車がホームに入り、隣の席の人が立ち上がるのに釣られて、自分も車両を出た。

ホームに降りると、女性が2人で向かい合って話をしていた。
片方の女性がもう片方の女性に、「気持ち悪そうにしていて気になっていたんですけど、声がかけられずにすみませんでした」と話しかけていた。
言われた方の女性の声は聞き取れなかったけど、恐縮している様子だった。
先ほどの謝る声は、連れの方ではなく、吐いてしまったご本人の声だったのか。

車両から降りて流れていく人のうちの何人かが、その女性に対し、マスクの替えやティッシュなどを押し付けるようにして渡していた。
カバンの中に入っているウェットティッシュのことを一瞬考えたが、何もせずに隣の車両に移動し、少し混雑しているその車両で最寄り駅まで過ごした。

漫画で覚えたような単純な正義感を持っていた子どもの頃、大人になったら困ってる人を助けられると思っていたし、当たり前にそういう大人になれると思っていた。
大人になって随分経った今は、目の前の困ってる人を助けられるだけの分別を持っている場面もあるはずなのに、発揮できたことがない。

吐いてしまった方をフォローしている方は自分以外にちゃんといたし、心配している旨を行動で示していた方もたくさんいた。
自分がそのタイミングで何かをする必要も特になかったと思う。
(車内の人がわりと心配していたということは十分伝わったと思うので。

この一件がなにか自分の心に引っかかっている。
自分のポンコツさや思いやりのない思考を再認識してしまい、ちょっと残念に感じているのかもしれない。
優しくて頼れる大人になれると思っていたのに、期待に届くような大人にはなれておらず、今の延長線上でそうなれる感じもしない。

でももし自分が優しい人だったとしてもその時の自分は自分の優しさを自覚できないだろうな。偏見かもしれないが、優しい人は自分が優しいって思っていないという確信がある。

世の優しい方たちって実は自覚があるのだろうか。
どうなんですか。優しい方たち。


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