東京学芸大学 2016 E類教育支援専攻 多文化共生教育コース 小論文 模範解答

オープンチャット「大学入試 小論文 対策相談室」



問1
協調性から社交性へ

問2
 課題文では、価値観やライフスタイルが多様化する日本において、今後は、人々が心からわかり合おうとしたり、協調性を求めるよりも、価値観や文化的な背景の異なる人々とも、共存していけるような社交性が必要だと述べられている。さらに、下線部では、子供たちの教育においてもこの社交性を授けていくことが重要だと示唆されている。
 私は、こうした筆者の主張に対して賛成である。というのも、今後さらにグローバル化が進展し、多文化共生が望まれる社会において、異質な他者との共有点を見出す努力なくしては、異質な他者の異質性そのものを認めたり、理解する道を閉ざしてしまうと考えるからだ。したがって、子どもたちに対しても、文化や価値観の異なる人々と接する機会を増やし、多文化共生として異質な他者との共生するための方途としての社交性を指導していくことが必要だと考える。たとえば、近年では学校においても、外国籍を持つ両親の子供たちの入学が増えている。それゆえ、学校においても、子どもたちが自分とは異なる名前や習慣を持つ級友と共に生活するためには、筆者の述べるとおり、異質な他者との共有点や妥協点を探るような社交性を身につけていく必要があると考える。つまり、相互に完全にわかり合うことをはじめから望むのではなく、多文化共生を実現するために、いかにして異質な他者とうまく付き合うことができるかという社交性が求められると考える。(593字)



問1
 県民性と呼ばれる概念は、「神話」と呼ばれるのにふさわしいと考える。統計学上、某県人の何%は…であるという説明は正確である。しかし、それを平易な言葉に置き換えて、「~県人は~の傾向がある」などと表現しはじめた段階から誤りとなる。というのも、統計というのはあくまで割合であり、傾向を示すものではないため、「県民性」と呼ばれる性質はないと考えるからだ。それゆえ、県民性は、存在しない「神話」だと言える。(198字)

問2
 文化について国家を単位として区切ることは適切ではないと考える。その理由は大きく三点ある。第一に、文化が人々の生活風習と切り離して考えられるものではないと考えるからだ。たとえば、日本においても食文化は、関東地方と関西地方では味付けから食材に至るまで差異が多くみられる。それゆえ、そうした差異を認めることなく、日本の食文化を統一的に定義することは難しいと考える。したがって、一国のなかでも文化を統一的に把握することは難しいことから、国家は文化の単位として適切ではないと考える。
 第二に、自国への外国文化の影響等を考えれば、自国に固有の純粋な文化と呼ぶことのできるものを析出することが難しいと考えるからである。課題文においても、日本文化は存在するかという問いに対して、肯定派も否定派も日本が中国や西洋文化の圧倒的な影響下にあったことは認めているからだ。それゆえ、外国文化との関連性を前提に文化について語ることは、文化について国家を単位として区切ることの無意味さを露呈する事態だと考える。
 第三に、文化は、時代や流行の変化とともに変転していく性質を持つものであり、国家という単位で文化を分類して、その特徴を一義的に捉えることが困難だと考えるからだ。たとえば、歴史的に見ても芸術や文化には各時代において流行がある。したがって、国家単位でその特徴を捉えることには無理がある。(579字)


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