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『石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』@東京都現代美術館 鑑賞メモ

開催初日に出かけてきた。

何がすごかったのか。デザインに対する凄まじさ。気迫があった。よく昭和の火の玉熱血な仕事人の逸話があるが、まさしく、それを体現するかのような勢い。1960年代の男女雇用機会均等法の前の世界、女性デザイナが世に問うたデザイン、入社の際に、男性と同じ待遇をするように要求したという。そうした冒頭のステートメントから、既に引き込まれていた。

そうした勢いが、広告に現れている。写真、コピー、構図、全体の雰囲気というよりも世界観が突出している。この時期にトップレスのモデルを起用したパルコのファッション広告ポスターは、今では違った意味で規制(恐らく自己規制)されることになると思うが、この当時のこうしたポスター、女性が仕掛けたという点に、ジェンダーに対する問題提起がなされたと感じる。こうした言葉遣いもはばかられるかもしれないが、ウーマンズリブとは、こういう表現だろうか。考えてみれば、女性向けの化粧品の広告を男性が作る。男性の目からみた女性像、ジェンダーを作り上げていたことになる。女性が女性のための商品を発信する。その当時の革新者だったのだろう。展覧会の入り口にある前田美波里を起用したポスターで、たちまち世界に没入する。

角川のエディトリアル・デザイン、今では当たり前のような装丁のデザイン、展示されたデザインは、今でもなお活き活きとしている。こうした力強さ。ストイックな病的なまでのデザインへの情熱、どこから、この気迫はやってきたのだろうか。

場面は映像作品、衣装デザインへとつながっていく。そして圧巻の金閣寺。この展示の仕方、現美の気迫も感じる。中途半端な取り組みでは、何も意味をなさなくなってしまう。命を削るような、魂を絞り出すような仕事、デザインの話だからか、仕事に連結した具合に見てしまう。

映画、Mishima。美しい映像、そぎ落とされた禅の世界、動と静の表現。遺族の要望により、日本での公開がなされなかった1985年の映画。ブルーレイディスクが、輸入盤としてAmazonでリストされていた。

映画衣装の世界、力強い衣装。映画を見ていないために、それ以上の感想は避けた方がいいと思うが、白雪姫を思い浮かべた時の衣装、そうした文化を拡張するかのような衣装デザイン、スクリーンに映し出される映画のシーンは、映画そのものよりも美しい衣装に目が行ってしまう。重ねて、映画を見ていないために評することは避けた方がいいと思うが、ロラン・バルトの言葉を思い出していた。

地下一階の展示会場にあったデザインを見て、仕事のオファーが来るが、新しいものをやりたがる。従って、オファーがあっても仕事にまで結びつかない。そうしたことが書いてあったように思う。そのステートメントを見た後のThe cellの映像美、引き込まれる。

監督のターセム・シンとは4本の映画を共に仕事をしたとあった。監督は、石川の本を愛読していたらしい。そうした世界観の重なりが、このような映画に結実したのだろう。そんな想像をしていた。思えば、ザ・セルは、修士1年生の時に紹介されていた。

展示場所は前後するが、先の白雪姫。あまりにも有名な物語、その物語を提示された時、自分は白雪姫を知っている。そうして思い浮かべるイメージは、文化と言える。万国で構築された文化の表象、それへの挑戦は、見事な結実だった。大きなスクリーンに投影されていた白雪姫の映像は、途中からの鑑賞であり、セリフを聞かせる、つまりは映画を見せるためのものではなく、衣装を見せるためのもの。実際にスクリーンの中で、俳優が身につけている衣装が、その場にある。その存在感。


1960年代、1970年代の広告表現、デザインの世界。昨年スペキュラティブデザインのワークショップで、話を聞いたデザインのワークショップで、確か50代のデザイナが、日本には成功体験があって、それを中々乗り越えられないと話をしていた。その時は言い訳のように聞こえたけれども、こうした展示を見せられては、その言葉の説得力が重く感じられた。

既に世界が作られてしまったのではなく、自分達が作り上げた世界を再構築しなくてはならない。

ステートメントにあった、”デザインによる言葉”がリフレインする。展示方法も圧巻だった。

(後から見た同時開催されていた展示が、全然頭に入ってこなかった。)


※観賞には事前予約が必要


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