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『瑠璃の浄土』@京都市京セラ美術館

ようやく瑠璃の浄土を見に来ることができた。今年の3月くらいに訪問する予定だった。

緊急事態宣言解除後は、地元京都在住の方から順次、対象範囲が広がっていった。Webからの事前予約が必要であり、これは来場者の人数を把握するためと、クラスタ発生の場合の連絡先の確保という二つの意味合いがあるみたい。

展示室すべてが参道かのような配置、薄暗い照明の中で、五輪塔が光る。クリスタルの五輪塔は、木材の柱の上に設置されており、足元のプレートには、海の名前が書かれている。五輪塔の水輪の中には、その海を撮影した白黒写真が入っていた。90度角度を変えてみると、その写真の存在は見えなくなる。限りなく薄い海の写真。

そうして海の道に誘われながら、突き当りの明るい壁に行きつく。《瑠璃の箱(無色)》ガラスと光学ガラスからなる作品。光学ガラスの破片を詰めた塔であり、後ろから光が照らしている。重金属が含まれているガラスは、今では環境負荷を考慮して製造されていないらしい。技術の儚さを封じ込めたという。

できることとやること。

技術的に到達できたとして、それがもたらすネガティブ。それは技術が途上なのか、それとも実験的な行為となるのだろうか。ロストテクノロジーとは違った人の技、そうしたものの可視化。


中央の展示室の《仏の海》の圧巻。

言葉を失う。

三十三間堂の仏像を撮影した写真、末法の世に浄土を顕すとして建立された。その浄土の様子を写真作品として提示した。これが捉えた光。

数年前に三十三間堂を訪問したことがあったけれど、旭を浴びた仏像の写真、白黒写真ではあるけれど、光輝いて見える瞬間、その光を閉じ込めたかのような作品に、身震いしたのだと思う。

そうした感動を抱え、田中眠の場踊り。江之浦測候所で撮影された。踊りの力、存在感が画面から溢れてくる。

ただ、朽ちていくかのような、なんとなく寂しい感情が起こった。


展覧会、こうした感情のジャーニーが味わえる。久しぶりの京都というのも感慨深かった。



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