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哲学講義@アンスティチュ・フランセ東京 受講メモ

物事には好き嫌いがあると思う。アートに限らず、音楽、映画、食べ物、漫画、なにごとにおいても。

なぜ、好き嫌いがあるのか。

僕は好きという点について執着が薄い。様々なことについて、何が好きか?という質問が苦手である。自分の中で好きの優劣順序をつけることができない。一部の感情が欠落しているのか、無頓着なのか。理由はよく分からない。

相手の納得する答えを予め用意しておけばいいのかもしれない。食べ物だったらラーメン、アートだったら印象派、野球だったら巨人ファンとか、そんな感じにしておけば、質問者は納得するのかもしれない。恐らく、あいつはラーメン好きだ。というラベリングへの抵抗感があるのかもしれない。

アンスティチュ・フランセ東京の冬学期の哲学ワークショップ、フランス思想、文学、慶応義塾大学名誉教授の堀茂樹先生による全5回のワークショップ。そのうちの言語と芸術の会に参加してきた。

初回と2回目の問いかけが面白そうだった。

テーマ:言語活動 問い:「言葉はわれわれを事物から遠ざけるか?」

テーマ:芸術および美的判断 問い:「美について、意見の一致は可能か?」

フランスでは、高校3年生の授業で哲学を行い、このワークショップのような講義が展開されるという。先生からのレクチャーがあり、参加者同士で問いに対して議論をする。議論した内容をグループ別に発表し、全体を通した検討を行うという流れ。

言葉があるから思考があるのか、思考するためには言葉が必要なのか。

シニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)の確認、音と言葉との境目などを講義し、それを踏まえた上で議論展開する。僕のグループには、言葉のプロとも言える翻訳者も居た。言葉ありきで思考をするのではないという議論展開、夢、無意識。

僕は、詩の構成、ダンスを引き合いに出して、言葉で思考表現が充足するのであれば、これらは不要であったはずと投げかける。呪術的なもの、霊感的なものの存在は、言葉を超越しているのではないかと思った次第。

いまある位置からスパイラル状に展開していくためには、言葉による整理、現時点の到達点の提示が必要である。そうした知の積み重ねによって今があるのだろう。言葉による伝承。

他のテーブルの議論発表にも耳を傾けた。工芸品ではない美的表現は、言語表現を超えていて、それは思考を表すものであるといった主張があった。

哲学の議論。思考と理論によるもの。


第二回目は、芸術に関するワークショップ。美という感情を共有することができるのか。

各人の中に美がある。(美に限らず)何かの提示、刺激があったときに、それを美しいと感じるかは、自身の内面を引き出す何かである。それが芸術品ということもあれば、自然現象ということもある。第一回目からの継続テーマであるかもしれないが、思考、言葉で表していたものを可視化したとき、そこに美を見出すのだろうと思う。


参加者は、みなさん人生経験が豊富な方々。平日の夜に(20人以上!)集まって、こうした議論を展開する。この議論が、なかなかに面白い。


ただ、幾分議論が抽象的になってきて、ふうわりしてしまうことがある。その議論が収斂していくことこそ哲学の醍醐味だと思うのだけど、お互いをよく知らず、バックグラウンドもそれぞれ、先生がうまく講義をまとめあげるけれど、なかなか痺れるような議論までに至らないこともある。

そうしたことを感じたあと、はたと現代アートに思考が接続する。こうした思考を受肉した作品があるために、鑑賞者と作品とアーティストとの対話ができるようになる。それにより、思考(あるいは解釈)が収斂していく。

そんなことを思った。



ヘッダ画像は、教室のミューラル。開放されていた教室見てみたけれど、全てに、違うアーティストによるミューラルがあった。ステートメントも付いている。普通の授業風景のように見えるけれど、教師が持っている蝶の絵に対して、papillonと答えている学生があるけれど、絵は学生の方に向いていない。こちらを向いている男子学生は目をつむっているように見えるし、超能力の実験場なのか、そうしたミステリーがあると思った。

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