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スーザン・ソンタグ『写真論』読書メモ

今だからこそ、この本を通常の読書のスピードで読めるような気がする。

おおよそ2年間の大学院修士課程、現代アート研究が、身に着いたということだろう。写真とは何かという点について確認しておきたいと考えている。

本書は恐らく読むたびに新たな発見が得られると思う。この書籍では沢山の事例が取り上げられている。写真家、美術家、詩家。そうした人達の作品、写真集や、何をしたのか、そうしたことを参照しつつ紐解きながら読み進めていくべき本だった。

スーザン・ソンタグの写真論

写真産業が、写真を芸術とするきっかけとなった。限られた人の手にあったカメラ、産業化により多くの人の手に渡った。すそ野が増えること、層が厚くなることで、芸術として見出された。これはビデオ・アートにも当てはまる。ソニーが民生機として高性能なビデオ・カメラを市場に投入し、映像作品を比較的安価に作ることができる環境が出現した。

このあたり商業的な観点からはキャズムやハイプサイクルとして定義されている。カメラという新しい技術、写真という新しい媒体が誕生したとき、どのようなハイプ・サイクルがあったのか、そう考えると僕にとっては読み解きやすい。


写真を撮るということの欲望、サファリのツアーは、ハンターがライフルをカメラに持ち替えた。

写真はなにか目新しいものを見せているかぎりはショックを与える。不幸なことに、賭金はこういう恐怖の映像の増殖そのものからもだんだん釣りあがっていく。根源的な恐怖の写真目録との最初の出会いというものは、一種の啓示、原型としての現代の啓示、否定の直感なのである。(P.30)

人生を二分するほどの写真、この文書の手前にベトナム戦争のナパーム弾から逃げる少女の写真(「ナパーム弾の少女」)を例にあげている。もし、その10年前の朝鮮戦争の写真が世界に提示されていたら、アメリカの大衆の意見は違ったものになっていただろう、と。

これは写真が共通言語化されたことの証左になる。言葉以上の伝達能力があったのだろうか。

実際なにかを写真の形で見るということは、内に魅惑を秘めた対象に出会うということである。写真映像の基本的な知識は、「そこに表面がある。さて、その向こうにはなにがあるのか、現実がこういうふうに見えるとすれば、その現実はどんなものであるはずかを考えよ、あるいは感じ直観せよ」といってみることである。自分ではなにも説明できない写真は、推論、思索、空想へのつきることのない誘いである。(PP.34-35)


写真が人の行動を変容させる。写真を撮ることで世界を所有する。体験する。感傷的にもなるし、被写体の何かを所有することにもなる。また、写真を撮ることや見ることで、体験や追体験をする。人の想像へと接続していくこと。

昔は撮影した写真は私的なアルバムや壁に納まっていた。それがネットによって共有される。そうした変化に社会の様相は変わらないのだろうか。インスタグラムによって集められた写真は何を表すのか。

いずれ、この本もおさえておこう。



ホイットマンの言葉を借りながら、美と被写体について次のようにある。

「明確な物体、状態、結合、過程のひとつひとつが美を表している」のなら、あるものは美しい、別のものは美しくないといって選び出すのは浅はかなことになる。もし「ひとりの人間がおこなったり考えたりすることがみんな大事である」のなら、人生のいくつかの瞬間は大事で、大部分はくだらないとするのは気まぐれになる。(P.40)

そして、次のように続く。

撮影することは重要性を授けることである。おそらく美化しえないような被写体はないであろうし、さらにすべての写真に本来備わっている、被写体に価値を付与しようとする傾向を抑える方法はない。(P.40)

被写体は撮影されることによって特別な存在になる。あるものが美しく、あるものは美しく無い。この言葉は美学を超越するだろうか。

意味のないもの、取りざたされることのないものをモチーフとすることは絵画でも起こったこと、それが写真になって加速した。

少し長いけど引用

殺風景な工場の建物や広告板が雑然と並ぶ大通りも、カメラの眼を通すと教会や田園風景のように美しく見えてくる。現代の趣味からすればもっと美しい。古道具屋を前衛趣味の神殿に仕立て上げ、のみの市通いを美的巡礼儀式にまで高めたのは、ブルトン一派のシュルレアリストたちであったことを思い出すがよい。シュルレアリストのくず拾いの鋭敏な眼は、他の人たちなら醜いとか、興味も関係もないと思うもの ー 古道具、がらくた、ポップな物体、都会の残骸 ー を美しいと思うように向けられていた。(P.102)

写真を通じた美の発見をシュルレアリスムと関連づけている。

写真は絵画史を数倍速でなぞらえている。貴族の肖像画から農民や市民をモチーフに、日常のなんでもないものに画家が美を見出してきた。写真も同様なとらわれ方をしている。そして、絵画とは違った道を進むが、互いにアイデアを取り入れる。交流あるいは敵対的な関係が続いている。


シュルレアリスト趣味、かつて(アメリカの)居間に飾られていた複製絵画から写真に取って代わられた。別の個所ではポロックとの接続についても言及している。

報道写真、家庭の写真、芸術としての写真、一筋縄ではいかない写真を美術史との関連について整理している点、しかしながら、明快ではなく写真という媒体の幅広さに眩暈を覚えるほど。


写真と建築は似ており、廃墟になったパルテノン神殿の美しさを引き合いに出している。ボロボロになった写真が美しい。時間の経過が、作品を強化していく。写真家は世界を収集するのである。

世界よりも写真の方が美しいものの基準になってしまった。(PP108-109)

写真で見ること、写真を撮ることに個人色が出るのである。写真として切り取った世界を写真を通じて見る。美を探す。

誰かが切り取った写真は、誰かの視点の再現となる。この視点について、時空から解放されたということか。インターネットによる瞬時のコミュニケーションの確立は、WWWの提案によって、写真と共に、双方が強化したと見ることができるだろう。

ソンタグの写真論は写真が持つ美とコミュニケーションについて触れながら写真史を撚り上げていくようである。

モホリ・ナジュの書籍を引き合いに出した美の発見について

画家は構築し、写真家は暴露する。(P.116)
様式の形体的性質は絵画では中心問題であるが、写真ではせいぜい二次的な意味しかもたず、なんの写真かということがいつもまず重要となる。(P.117)

絵画と写真の関係、美術史と絡み合う写真、絵画と写真はお互いに干渉し、影響し合っていた。フランシス・ベーコンとウォーホルへ思索が至る。

本書で参照の多いアーバスとロバート・フランクは押さえておく必要がある。ほんのちょっと登場する人物とその作品も沢山の紹介があり、そうしたもの、事象が写真を通して接続していく様子を描き出そうとしている。アメリカと写真と美術史を関連付けながら、写真論として編み込んでいくような、そんな気迫を感じた。


ロバート・フランクは清里で見た。写真集「The Americans」に掲載されている作品が多く展示されていた。彼自身が高齢だったけれど、これが生前最後の展覧会になるとは想像していなかった。

アーバスは写真を見かけたことがあるが、『写真論』を読み解くためにも、じっくり見るべきだと思う。

写真とは日常生活から高級な芸術までを取り込んでいる。



美に関して、趣味の答え合わせは砂漠に水を撒くようなものではないか。



詩は情景を想起させ、写真は言葉に思い至る。


写真家が述べるように、写真の撮影は客観的世界を私物化する無限の技術であると同時に、単一自我の避けがたく唯我論的表現でもある。カメラは既存の現実を暴くだけだが、写真はそれを描く。また写真はカメラが切り取る現実を通して個人の気質を発見しながら、それを描く。(中略)写真が世界にかかわるものである(あるいはそうあるべきだが)かぎり、写真家はあまり価値がないが、それが大胆な主観性探求の道具であるかぎり、写真家はすべてなのである。(PP.151-152)

モダニズムと写真、記録することによって芸術を文化的な資料の役割としてしまう。

写真は、

ポップ版のモダニストの趣味のもっとも成功した媒体である。(P.162)
写真家たちが写真が芸術であるかないかの議論をやめたちょうどそのころに、一般大衆から芸術として歓呼で迎えられ、写真が大挙して美術館へ入ったということは偶然の一致ではありえない。(P.162)
あらゆる種類の映像と一緒くたに論じられると、多くは脅威を覚え、これは写真をなにかつまらぬ俗なもの、ただの技能に堕させるものだといって攻撃する。(P.164)
フォルマリストの写真の取り上げ方では、写っているもののもつ力と、写真からの時間の隔たりと文化の隔たりが私たちの興味を増す有様を、説明することはできない。
それでも現代写真の好みが総じてフォルマリストの方向をとっているということは道理にかなっているように思える。(P.167)
いまや写真が現実であって、本物の経験はしばしば幻滅に終る。(P.180)

オンラインの世界で、これらの言葉はどのような意味を持つのだろうか。

未開社会では事物とその映像はたんに同じ精力か精気の二つの異なった、つまり物質的に別個の現れであった。強力な霊をなだめたり抑えたりするのに映像が有効であるとされるのもこれからきている。そのような力や霊が映像の中に存在していたのである。(PP.188-189)

写真は代用所有する。カメラでショットし、写真としてプリントする。

写真に残すことで、分類・保管の対象である情報になる。情報の制度の一部となって、家族アルバムでさえ、例えば時系列での整理という対象になる。ここに写真が持つもうひとつの側面、コミュニケーションの能力が浮き彫りにされる。


写真に残った魔力の痕跡。愛する人、死んだり遠方にいる人の写真は大事に手元にとっておき、捨てるに忍びない。人間はそうした力を写真から感じている。


カメラはすべての年齢にわたって、完全な記録を所有することも可能にしてくれるのである。十八世紀、十九世紀のブルジョア家庭の標準的な肖像画の主眼点は描かれた人物の理想を(社会的地位を明示し、個人の容貌に重味をつけながら)確証することであった。こういう目的を与えられれば、肖像画の所有者たちが一枚あればたくさんだと思った理由がはっきりする。写真記録が確証するものはせいぜいその被写体が存在するということだけである。だから写真はたくさんありすぎるということはないのである。(P.201)


映像は見る人を見ざるを得ない状況に陥れる。何時間もかかるような事象を圧縮し、重要な部分を映像の技術によって強調する。ウォーホルの映画は、こうした映像の特性を暴露するものだったのだろうか。

私たちは人格を行動と同等に扱う傾向があるので、カメラが与える外部からの機械化された注目を広範囲にわたって公に設置することを受け入れやすい。中国のはるかに抑圧的な秩序の規準では、行動を監視するだけでなく心を変えることも要求される。そこでは監視は先例がないほど内化され、そのことは彼らの社会では監視の手段としてのカメラの将来はもっと限られていることを暗示している。(P.215)


本文は200ページ程だが、その重厚さに脳内が、何度も活性化された。

けれども、後期情報化社会、インターネットの活用の以前までである。今日的な事柄は、日々の動きから拾っていくのでしょうね。



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