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ジャン=フランソワ・リオタール『知識人の終焉〈新装版〉』読書メモ

リオタールの『知識人の終焉』を読んでみた。この本を手に取ったきっかけは、あまりにも『ポスト・モダンの条件』が分かりづらかったから。この人の言うことを、違った翻訳で著した本からアプローチしてみようと思った次第。この『知識人の終焉』は、『ポスト・モダンの条件』の姉妹書とされている。


科学者、技術者とは、その領域で最高のパフォーマンスを発揮することを目的としている。インプットとアウトプットを収入と支出という観点で整理し、それに手を貸すテクノロジー。複雑な科学技術が何を表しているのか知らなくても、インプットとしての必要な資源、資金とアウトプットとして得られる収入、資本という目に見える形で、代理指標が与えられている。

創造行為とは別の創作活動への援助を審議する委員会に参加するときに、

文化活動とか文化の<活性化>といった考え方それ自体が、文化の受け手(大衆、利用者)は理解力や鑑識力、感受性、表現手段を欠いており、それ故、彼らを教育しなければならない、ということを前提としているのである。(P.7)

この目的を達成するためには、足を運ばせるために誘惑せねばならないとしている。


芸術家、作家、哲学者は、彼が芸術家、作家、哲学者である限り、絵画とは何か、エクリチュールとは何か、思考(パンセとルビ)とは何か、という問いに対してのみ責任を負うものなのだ。彼に対して、「あなたの作品は、大多数の人々にとって理解できないものだ」と言ってくる者がいるとしても、その作者たる彼には、そんな非難を歯牙にもかけない権利があり、その義務がある。彼の作品の受け手は大衆ではないし、あえて言うなら、芸術家、作家、等々の<共同体>(コミユノテとルビ)でさえないのだ。実のところ、彼は自分の受け手がいったい誰であるのか知らないのであって、芸術家、作家、等々である、というのはつまりそういうこと - 砂漠のただなかに<メッセージ>を発することなのである。まして、彼は自分の判定者が誰であるのかなど知りはしない。(P.8)

孤独である。

しかしながら、作者は絵画、文学などの作品において公認の判定基準を問いただしている。判定基準のみならず、領域の境界、ジャンル、学科の区分も問いただしている。

これはコスースの椅子の事例が、思いつく。

作品作りは実験である。教育しようとは考えていない。そこで、冒頭の文化の活性化には興味が無いことなのである。

もっとも、だからといって、彼は<知識人>である、というわけでもない。彼は、<創造行為>の責任をとるために、何らかの普遍的主体に自己を同一化〔一体化〕したり、人類共同体の責任を背負い込んだりする必要はない。(P.9)

アインシュタインの理論物理学に言及し、認識の普遍的主体(および客体=対象)という近代的理念を揺るがした。

常に流動する、基軸となること。


啓蒙主義者と自由主義政治。自由主義政治が啓蒙主義を活気づけた。十九世紀の啓蒙主義者達は知識人なのだろうか。教育が普及すれば、排他的利己主義が一掃されて戦争を妨げることになるのだろうか。

フランスでは教育に対する信頼が失われているという。教養ある市民を作るのではなく、職業人すなわち専門家を作ることに転換していった。

無知は罪、ということではなくて、知識の習得とはよりよい賃金を約束する職業上の資格を手に入れることなのである。(P.15)

知識人はもはや存在する筈がない。

知的階層は、口を噤んだり、慣れ親しんだ自分の仕事に引きこもるのではなく、<知識人>を邪魔者、あり得べからざるものにしてしまうような - <近代的なるもの>(モデルニテとルビ)をつくりあげてきたパラノイアから知性を切り離す、という - 新たな責任の高みに身を置こう、としているのである。(P.18)


知識人とは何か、なぜ、終焉するのだろうか。資本主義への考察などもあるが、知識が技術に置き換わり、その技術は賃金を得るために使われる。知の収斂のような場ではなく、キャリア・アップのための訓練になるためか。

一九六八年の五月革命以降、自らの活動を、一般に認められた、伝達可能なパラダイムに一致〔適応〕させることよりも、自らの活動を問いただし、試練にかける能力を堅持するようになっています。<知識人>たちの<文化>がかつてこれほど<哲学的>であったことはありません。(P.38)

職業人ではなく文化人、どれくらいの予算をあてるのかを決める立法府。割り当てられた予算執行の自由さ。そうしたバランスが、危うさを持っているような、遠回しに危機感を提示している。

資本をため込むという目的のために、世界は過剰な投資、資本蓄積を行い、過剰在庫を抱えて閉塞状態になるという。この指摘、成熟社会に対する警鐘なのでしょう。1970年代のオイルショックと、1960年に”制禦的な諸理念の複合体の危機”があった。これに続く文書は、次の通り。

つまり、知の終末=目的とは何か、というわけだ。これは、科学者、学生、そして教育者の問いである。<自然>や環境の破壊という代価を支払ってまで、遂行することを求める必要があるのだろうか、良き共存ということが、労働と消費とからなる閉じたシステムのなかで可能なのだろうか。(P.48)

1960年の”制禦的な諸理念の複合体の危機”が何を示しているのかは分からないけれど、恐らく五月危機とそれに関連する、今までの価値観の転換のことを指しているのではないだろうか。

Wikiによれば、世界的な同世代が出現し、パソコン通信によって、世界的にコミュニティが広がり、意思が伝搬し、コンピュータ・カルチャーに接続していくとしている。本書でも、新しいテクノロジーのインパクトとして、その影響について論じている。テクノロジーの進展によって、自然的な人間や動物などを自動装置に置き換えていくという。これだけならば、チャップリンの『モダン・タイムス』でも指摘されていた。リオタールは、監督者たる操作系までもが、テクノロジーによって代替されるとしている。ここからプログラミング言語へと話題が移る。

これら三つの領域〔科学、技術、経済〕は、こうして再び - 情報処理というパラダイムの周囲に - 集結することになるが、それはとりわけ次のような様相を呈して現れる。(P.50)

知の操作者と呼んでいる、恐らく研究者のことだと思うが、その研究活動の細分化と組織化、研究室が工場のようになるという。テクノロジーの導入に伴う、それを操作する人たちの出現。サービス業へ浸透する自動化装置、それによる分業化。コンピュータを内蔵した商品の増加。研究所、社会、職場、家庭にまでコンピュータと情報処理の考え方、プログラミング言語が浸透していくとしている。このようにテクノロジーが浸透した社会では、それによる失業、職業訓練、労働時間の短縮(手取り給与の低下を隠喩している?)、実務労働の価値の低下。

これは、昨今指摘されているAIによって奪われる職業の預言書と見ることもできそう。ただ、AIによって職業が奪われるとあるが、例えば100年前の職業のどれほどが、現在も残っていると言えるのだろうか。

先の考察を日本にあてはめて考えてみると、労働者と経営者の対立は、技術革新による自動化を後押しした。最後に残った手作業的な労働集約は、海外に移転していった。日本企業の現場力、そうしたものが薄れて、モノづくりの差別的な競争力が低下したとされる意見も見かける。

産業構造のみならず、社会構造が高度情報化により変化していく。豊かさを享受するだけでなく、そうしたコンピュータに関わるコストを負担していかなければならない。

ここまで言葉について、まして本業として長いこと関わってきたプログラミング言語について掘り下げて考えたことは無かった。こうしたことを考えている余裕があるならば、新しい関数や、開発手法あるいは、開発方法論を習得した方が良かった。1990年代は、そんな時代だったと思う。



現代の流行は、多くの場合、アヴァンギャルドという称号を身にまとってはいるが、それがいつも額面通りであるとは限らない。そんなことも時にはある、といったところだ。アヴァンギャルドという名を称える権利があるかどうかは、批判的作業の結果、思想を揺るがすことができるかどうかによって判断される。それを知るためには、長期にわたって待たなければならないかもしれないのだ。(P.81)

何がアヴァンギャルドなのか、それが定着してからでないとアヴァンギャルドとは言えない。なんとも皮肉な指摘だと思う。



さて、『知識人の終焉』が分かったかというと、イマイチ判然としない。ただ『ポスト・モダンの条件』よりも数倍読みやすかった。じっくりと読み返してみて思ったのは、リオタールが指摘していることを、その時代の主体と接続すると、現在的な問題として立ち上がってくることに、素直に驚く。





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