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奥野克己『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』読書メモ

修論に関係して、アニミズムについて情報を集めようと考えた。


アニミズムは地球や宇宙にあって人間だけが主人ではないという考え方、もしくは思想のことと定義している。

アニミズムでは、人と人外(人以外の存在)は、姿やかたちは違えども、心がつうじ合っている。(P.7)

第一章はこんまりについて始まる。そこから風の谷のナウシカへ行き、川上弘美の「蛇を踏む」に連なっていく。イントロの入りやすさと面白さ。

こんまりに接続する文書は、モノが捨てられない点について人の精神の分析を行った上で、所有している自分もモノ自身も不幸であるとする。

モノに触れてトキメキがあるかという点については、テレビでも報道されている有名なセリフだと思う。その裏側に、モノがかわいそうという表現が繋がる。

ん!?

モノがかわいそう。モノに対して心を通じる表現というのは、日本人ならそれほど違和感の無い表現だろう。けれども、こんまりが受け入れられているのはアメリカである。

一種のオカルティックな解決法を提示する。「こんまりメソッド」とは、物理と精神論の合成物、あるいは、合理と「非合理」の混合の成果だということはできないだろうか。(P.10)

こんまりメソッドは大量生産・消費社会におけるジンテーゼを提示しているのかもしれない。

書籍では思弁的な展開としているが、片付けという身近なテーマに触れ、服を触って、きちんとたたむこと、ハンガーにかけること、クローゼットへの整理にしてもカテゴリに分けて似た服を近くに並べること、吊るされた服も自分と同じカテゴリーの服がそばにあれば安心するという。ある意味オカルトな言い分だけれども、片付けという現実に接続することによって、実践論として、とても強い存在感を示している。

私たちは、二十一世紀に、今まさにつくられつつあるアニミズムに立ち会っていることになるのかもしれない。(P.13)

こんまりメソッドを紹介しながらアニミズムについての共通理解を促し、資本主義と環境について語る。そして、モノとの対話を促しているように見えるこんまりメソッドが、実は自己対話であると結ぶ。


別にこんまりを攻撃する意図は無いと思われるが、2章はゴミ問題と関連付けて、次のような文章がある。こんまりという依り代を使い、現在社会を批判している文章として、明快で分かりやすい。

人間中心主義の磁場に囚われているのだと言えるのかもしれない。(P.20)

ホーダーの引き合いを出しつつも場面はアニミズムへの探求に変わる。アニミズムとして映画版の『風の谷のナウシカ』を取り上げる。

「生命の持つ魂の同質性」、すなわち人以外の存在や現象に、人と同質の魂が宿っていると感じられることが、アニミズムの正体である。ナウシカは自ら、人外との関係を自ら断ち切ってしまうことなどない。(P.23)

風は呼吸と同質視される。

呼吸として風が体内にはいり、吐き出された息が風となって巡る。

鼻から生まれたスサノオは風の神だった。

風のアニミズムとしてディビッド・エイブラムが参照される。アルファベットを獲得する前、人類は風のアニミズムを持っていたという。母音の無い子音だけの初期のアルファベット、そこに命を吹き込み言葉とするのは母音である風である。

古代ギリシャ人により、母音がアルファベットに導入され、話している言葉が、書いている言葉にもなった。ここに脱神秘化が行われた。

自然の中の音や声から完全に独立した言語テクストが立ち上がって、空気や風からできていたはずのアニマが自然の中に存在しなくなった。(P.29)

書かれた言葉によって風から切り離され、アニマが失われた。ここでのアニマとは、魂とか力のようなもの、テキストが語ることによって、自然との対話が失われていったということ。

デカルト以前に、こうした脱神秘化の土台が作られていた。

かつて自然の中にあったアニマは、人間の頭蓋の中に徐々に監禁されていったとエイブラムは言う[エイブラム 2017: 329]。アルファベットによって、自然の「霊魂的奥行き」が消失し、人間の中に魂や力が移し替えられ、人間中心主義が進められていった、と言い換えてもいい。(P.29)

西洋も脱神秘化からの揺り戻しを望んでいるのではないだろうか。




川上文学に話題が移る。『神様』と『神様2011』と、『蛇を踏む』。

川上が教師をしていた時に映画館で見たナウシカ、彼女はナウシカの中に聖なるものを見たと記憶したが、実はそれは誤解であった。ビデオを見返し、ナウシカは父を殺され激情する普通の人間であることに気が付いた。二項対立を認識したが、実は存在していなかった。

『蛇を踏む』のおおよそのあらすじが掲載されていた。これだけ読むと、なんとも奇妙な話となるが、自分の精神とそれを取り巻く世界に、実は境界など、もともと存在しないのかもしれない。

この蛇を踏むというキーワードから真っ先に思い浮かべたのは、カミーユ・アンロの展覧会。

展覧会のタイトルは川上作品から取られた。講演でその理由を語っていたけれど、その時は、そこまで気に留めなかった。

そして岡山芸術交流2019でも蛇をタイトルに含めている。




11章からなる書籍は様々な領野に接続する。例えば捕鯨の話や、動物慰霊碑の話へと。自分と他者を分ける境界は何か。アイヌの熊送りの儀式、蛇を踏むも、アイデンティティを切り離したように見える。

アニミズムは日本に固有のものではない。

引用の引用になって恐縮だが、次の文を検討したい。

ウィラースレフによれば、「人間ではない<ノンヒューマンとルビ>動物に対して(また、無生物や精霊といった動物ではないものに対してさえ)、人間の人格と同等の知的、情動的、霊的な性質を与えるこうした一組の信念は、アニミズムと伝統的に呼ばれている」[ウィラースレフ 2018: 12-3]。(PP.100-101)

さらに、引用

狩猟者は、彼に向かって歩み寄るエルクを見ているだけではなく、あたかも自分がエルクであるかのように、「外部」から自分自身を見ている。つまり彼は、(主体としての)他者が(客体としての)彼について持つようなパースペクティヴを自分自身に引き受ける。
[ウィラースレフ 2018:168](P.102)

猟の前日から、エルクの皮を被り、エルクになりきって、フェロモンを漂わせる。だからこそ、獲物であるエルクは寄ってくるし、猟の成果を上げることができる。もし、狩らなければ、猟師はエルクに取り殺される。

狩猟者の二重のパースペクティブ。

エルクを見る主体としての狩猟者、エルクから見られている客体として自らを見る狩猟者、これが瞬間的に何度も入れ替わるために、主客間の境界が無くなり、一体化するという。

この入れ替えの狭間で引き金を引くのだろうか。


北方の狩猟者に関するアニミズムの考え方は近年まで東北地方に見ることができた。それを宮沢賢治の中に見ることができるという。

宮沢賢治の作品をなぞらえつつ、互酬的な人と動物の関係について語る。

仏教の経典の中にある兎が自らの身を燃やして供物としてささげるという逸話、そうした逸話も引き合いに出しながら、宮沢賢治の『なめとこ山の熊』の小十郎と熊の関係を検討する。

熊を狩る小十郎は、肝を売って生計を立てていたが、自分が亡くなる時、その身を熊に食べさせる。

天台本覚思想、つまり「草も木も、国土もすべて仏になれる」という思想が、縄文時代以来の日本文化の中核的な思想であると説く[梅原 2013: 163]。そして賢治は、この思想を素晴らしい文学によって表現した文学者だと言う。(PP.116-117)



ユングに話題が移る。

ユングは幼少の頃、石も「私」であると思えたし、石もまた私の上に坐っているという考えに取りつかれることがあったと回想している。その時、ユングにとっては私が主体であると同時に石もまた主体だったということになるだろう。(P.124)
抽象的な点としての私が成立していないのが、アニミズム世界である。(P.125)

自分と他者、他者は人外も含まれる。その境界の欠如。神秘的なものは、文字として、人の考えからこぼれて行ってしまったのだろうか。


ベルクソンと小林秀雄。

脳の組織の中に存在しない記憶、それがすなわち魂の正体である。それは空間的な場所を占めないために実在しないのだと考えられる傾向があるが、「魂の実在というのは、空間的存在ではない。決して物的存在に還元しえないものなのです」[小林 2017: 60]と小林は言う。直観によって魂は実在する。(P.154)

いまなら、塩田千春の展示をもっと違った視点で見ることができるだろう。noteを書いていて、とてもいいことは、こうした振り返りができること。

塩田千春の作品の再解釈は、西洋的なコンテキストにおいて、主客の分離からどうしても引き戻すことができない。そうしたジレンマに突き刺さるように考えた。

アニミズムを考える上では、人とモノの「あいだ」を考えることが肝要である。精神医学者・木村敏によれば、「あいだ」とは、人やモノなどの存在しない空白部分ではなく、表面に出ている人やモノに裏面から作用を及ぼす力の場である[木村 2008: 71-9]。

アニミズムは、より人間であることを突き付けることである。


西行法師が和歌を詠む。

他者を見つつも自分を見つめなおす、それがアニミズムである。

アニミズムは、その意味で、人間の精神の在り方の問題であるのだと言えよう。(P.194)

平安時代に吉野山に入った西行法師。吉野の桜、その頃の吉野山は険阻な秘境であった。

吉野山梢の花を見し日より 心は身にも添はずなりにき 『山家集』


西行は桜の中に入り込んで、私でありながら私でないという境地に達している。また、花と同調して一つとなってときめいて、身体には何も残っていないという思いが、この短歌には表現されているのだと解釈できよう。(P.197)

自分の心が身体を離れて花に向かってしまい、帰ってこなくなってしまう。そうした解釈を示した辻、山折などのテキストを引用している。我を忘れるということか。

「遊離魂感覚」とは、山折の呼び方。体から離れた魂、万葉集にも繰り返し歌われている。

体から心が離れる神道感覚、体と心が一体となる仏教感覚を併せ持った。

こちら側とあちら側の「あいだ」に生じるこういった感覚こそが、アニミズムと呼ばれているものに他ならない。(P.199)
主体である人間が、客体の世界に引き入れられたり、客体と見分けがつかなくなったり、客体の中に入り込んだり、客体のほうに往ってしまうというテーマであった。それらは、主体と客体の「あいだ」の問題であると言い換えることもできるだろう。(P.199)

修論で研究したピエール・ユイグは、この境界が何によって形成されているのかを探求していた。エルクや熊の狩猟の例から考えると、往還を促す作品を提示していたのだろうと思う。

主客未分で言語化以前の私的な純粋経験へと入り込む。(P.206)

こうした感覚をピエール・ユイグの作品から感じた。

公共的空間と私的な純粋経験の領域の「あいだ」にアニミズムが姿を現すのだと捉えたほうがより正確であろう。(P.206)


イタリアの小説家イタロ・カルヴィーノの『不在の騎士』の主人公の部下グルドゥルーについての記述が興味深い。

グルドゥルーは言葉や知識で整理されない、主客未分の真実性の領域に迷い込んでいることになる。そして、彼は再びいつの間にか公共的空間に還ってくるのだ。(P.208)




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