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新宮一成 『ラカンの精神分析』 読書メモ  その2

前のnoteを書いているときに、"アイデンティティの相対化"とは、どのようなことだろうか、と思案していた。自身の中にある他者あるいは他者性について記載されているが、つまり、関わる人間関係によって、自己が変化していくことではないだろうか、と考えるに至った。空気を読むということに近しい感じもするが、少し違うような気がする。

自身の欲望が他者によってもたらされた。それは無意識下で転移し、気が付いたときには既に意識のもとにあり、なぜ、それをしているのかが分からない。偶然ともいえるが、エメの息子を自分のゼミに招き入れたラカンの選択は、無意識下で、エメを選んだということか。

二章は、フロイト以後からの話題として論文の検討から始まる。フロイトの1917年の論文「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」という論文。糞便と子供、金銭、これらは無意識の中では共通の平面を持つという。このフロイトの論文以降としてメラニー・クラインの論文を挙げる。

無意識における象徴的交換は、言語的に世界を理解する活動と別のものではない。精神分析は、その活動をその場で直接扱うのだ。分析家は、象徴の流れを読み取る。そして、クラインの分析においてとりわけ特徴的なことは、彼女がその流れを、自分自身のその場での現存に引きつけて理解していることだった。

P.35

クラインが子供の治療を行うとき、一貫した意味を言葉として与えた。それが主体を取り戻すことに繋がり、対象からの転移を促すという。

1932年が"フロイト以降"の元年という。メラニー・クラインの論文もそうだが、ドイツからアメリカに亡命する精神分析家が多くあった。こういう転換点とも言える年がある。僕は修士論文で、二つの転換点を示した。高度情報化社会の始まりの年と、今では言われなくなったシンギュラリティの始まりの年。

ラカンを知るために、メラニー・クラインの論文にフォーカスしていく。乳児と乳房と母乳の無限性、母乳を与えられた乳児は満足と不安を抱える。分け与えられた母乳のみならず、母乳を与えられる乳房を欲しがる。

アンナ・フロイト、メラニー・クライン、マリー・ボナパルト、精神分析の母権制期としている。フロイトに異論を発するクラインと、それを阻止したいアンナ・フロイト。マリー・ボナパルトは精神分析学会の分裂を回避するために政治的な手腕を発揮するという。マリー・ボナパルトもまた「メラニー・クラインの衝撃」を受けたためだった。このような時期にラカンは、エメの論文を提出した。

ラカンの鏡像段階論

人間の個体が鏡像に向かった時に示す強い悦びの中には、自我の統合と性的な活動の両方が混在していると推定される。すなわち、人間は、この時期に鏡像としての自分を理想として引き受けると同時に、その自分を性的興味の対象とするのである。それがナルシズムの構造である。鏡という虚像の次元の中で、性的な目標と理想的な自己が強固に結びつけられるのである。

P.51

人間にだけ見られるこうした特徴、動物の場合は自身の姿と他者の姿で区別がないという。

鏡の中の私は、社会の中の私へと急旋回していく。アンナ・フロイトは攻撃者への同一化を主張している。子供は恐怖の対象と同一化(真似すること)によって、恐怖を克服しようとする。これらは自他の区別を否認し、攻撃的成分を自己の中に潜勢化する。

ラカンがセミネールでクラインを取り上げた。

クラインによれば、乳児は、母の体内の始原的対象を破壊したのが自分であったことに気付き、抑鬱態勢に入り、破壊を償わねばならぬという衝迫に身をゆだねる。芸術創造の源も、乳児が幻想や遊びの中で行なうこの修復の活動の中に存在する。

P.55

フロイトからクライン、そしてラカンに至る理論が説明されている。フロイトはドイツ語でモノと書き表したが、ラカンはフランス語に訳したときに、語頭を大文字化した。それが対象αとして、本書の重要な役割を担う。

ところで、学会の分裂について仔細に説明されている。多分に政治的な様相を示し、こうしたことがラカンの思想を理解するのに何の必要があるのだろうか、と訝しむが、1953年9月のローマ講演の記載を見ると納得する。

僕がプログラマを選んだのは、社会生活を送るにあたって政治的な駆け引きから身を引きたいと思ったから。実際には半分は思惑通りで、半分は外れた。プログラムを書くとき、プログラマのスキルに依存することが多い。サラリーマンというよりも、職人に近いかもしれない。そして、いくら政治的な圧力をかけてこようとも、プログラムのバグは消えないし、システムは動かない。これが半分は思惑通り。外れる部分は、プログラマ同士においては、やはり政治的なことがあるということ。

ローマ講演の演説は、ラカンの新学会のマニフェストと言えるものだった。

意識されざるものが意識を動かし続けるというフロイトの発見を帳消しにしようとするものである。

P.65

これは生物学主義とヘーゲル的な抵抗分析の批判である。この二つを批判することはフロイトに続くものとして必要な宣言に取れる。そして、意識は言語活動の上に成り立つという。

この論文は無意識を多声音楽のような言語活動として構想する。無意識は脳の低次機能ではなく、強い自我によって打ち倒すべき非道徳的な傾向でもない。すでに言語的に構築された社会関係の中に人間が生まれ落ちることによって、人間の中に、主体的な意識に先立つそのような言語活動が埋め込まれる。

P.65

ラカンは無意識を言語的な構造としている。

ラカンの短時間セッション、言語的な構造の上に成り立つ。話をするということは時間的な関係性を持つということ。言語は線的な構造をもち、つまり連なることで意味が立ち上がる。話をする。つまり線構造は時間の経過を意識させる。時間は自身の生を意識させることにもなる。

己れの生命の時間的有限性に触れることでもある。

P.66

ラカンの短時間セッションの主張が、学会が分裂することの要因だった。その他にも細かな点はあるが、それはラカンが短時間セッションの上に自身の精神分析の理論を打ち立てたかった欲望なのではないか。

基準化された時間の積み重ねの中にではなく、区切れそれ自体の中に、主体にとっての最も重要な現実が現れてくるのである。

P.67


主体が考えて話す、分析家が時間の構造を導入する。現代アートのアーティストは、主体でもあり、分析家でもあるように思えた。




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