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《月白の城》来夢

創作人形作家の三人展が開催されている。ひびきさんとKahoさんと来夢さんの三人展であり、来夢さんは三点の創作人形を提示していた。そのうちの一点は東京造形大学の卒展で見た作品だった。ひびきさんの作品も卒展で見た。

展示風景, ©来夢

東京造形大学で見たときのことを思い出す。2023年のZOKEI展では、彫刻棟の一番奥のスペースに座っていた《月白の城》を見たとき、他の彫刻とは明らかに違う凛とした空気を感じた。

《月白の城》, ©来夢

東京造形大学の彫刻棟はバスの停車場からみて一番奥にある。いくつかの倉庫のようなアトリエが展示スペースになっており、その建物の入り口付近にもアトリエの中にも多数の人物塑像が並んでいた。課題への応答として提示されたような白い石膏人物像の間をくぐりつつ、一番奥の建物まで見ていく。球体関節人形の《月白の城》が、入口側の壁にもたれかかるように、ちょこんと座っていた。二つの頭をもち、裸像であり、長い髪を持っていた。奇形、裸の少女、幾層にも重なるタブーに触れるような耽美な存在感が、他の作品を切り離していたのではないだろうか。

色があった。髪の毛は人髪を用いており、それがために生き物のような感覚をもつ。ふたつの顔は胸のあたりでわかれておりひとつの体を共有している。向かって左手側の顔は目を開き、右側は目を閉じている。
左の顔の見開いた眼と対峙したとき、それが人形と分かっていても、こちらのことを見透かされているのではないかという不安な気持ちが沸き上がってくる。そして閉じた目は思索へとつながる。

《月白の城》(部分), ©来夢

ひとつの体にふたつの頭、これは二項対立を思わせるが、ひとつの体を共有しているためかグラデーションを思わせる。どこからがどちらの体なのか。あるいは一体なのか。
アイデンティティの問題は避けて通るわけにはいかないし、この二つの顔は誰しもが持っている、そう思えて仕方がない。それは分人でもあるし、自分を示す言葉がひとつとは限らないことを示している。

創作ドール。これは明らかに彫刻であるが、人と人形との関係は太古にまで遡る。ヒトガタに込められた思い。仮面にも通じる根源的な関係性を感じずにはいられない。

人形のキャラクターは、ドールオーナーによって紡がれる。作者の意図とドールオーナーが注ぐ愛情、その同調と離反。それは藤田和日郎が描いた『からくりサーカス』を連想させる。

圧倒的な物質感がある創作人形、球体関節は人形の姿勢を変えることを可能にした。人を写し取ることを目指しつつも、関節に球体を施す。正確な形を写すよりも動くことが重要視されたのだろう。動くというのは様々な可能性を見させる。

《月白の城》解釈は見る人に委ねられる。提示されているのは、胸から下の体を共有するふたつの頭、開いた眼と閉じた眼、向き合うようなそっぽを向いたような顔(もちろん動くから顔の向きは変えられる)と、何か言いたげな表情、それは鑑賞者によって変化する解釈である。空っぽのキャラクターは、その中に何かを入れる必要があると、アンリーのプロジェクトでは考えられていた。

圧倒的な物質感を見せる創作人形、彫刻としての時間の蓄積もあるだろう。動く彫刻として見るのか、人形として見るのか、そこも多面性を想起させる仕掛けのように思える。作品が様々な思索の旅へと導いてくれる。


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