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Ben Eastham『Pierre Huyghe』October 2018 読書メモ

修士論文は、ピエール・ユイグ論を書く。

大学院で現代アートの研究に足を踏み入れ、分からないながらも見て、体験して、本を読み、考えた。

このnoteは、単体でも、全体としても、よく意味がつかめないと思う。ただ、自分の中では繋がっていて、でも、パンくずのような頼りない道しるべのように思う。それが途絶えたり、辿っているうちに、違う道に入ってしまったり。


同時代性、社会や政治の他にも、人に興味を持つようにした。(情報システム構築の仕事をしていると人に対する興味が希薄になるような気がする。)『美術の物語』、『コンセプチュアル・アート』から出発し、リオタールに潜って、ようやく現代アートに辿り着いたように思う。

アート思考、アーティストの思考を探る。ピエール・ユイグの作品、批評、インタビュー、対談から探っていきたい。どこまで迫れるだろうか。

2018年。サーペンタイン・ギャラリーで回顧展(?)があったらしい。キャリア30年の集大成的な展覧会のように見える。2018年の October に Ben Eastham のテキストが掲載されたらしい。artreview.com で読むことができた。


ピエール・ユイグの作品は事実と虚構の混同を超えて、私たちの世界経験がどのように構築されているのかを問うものである。


Unknowability is hardwired into the world. Chaos theory tells us that the complex systems shaping our experience of the world cannot perfectly be predicted; recent financial and ecological crises have provided ample proof of humanity’s hubris in presuming otherwise.

先行きの見通しができないこと、これは世界に組み込まれている。カオス理論はこうした先行き不透明感を予測することはできないということを教えてくれる。金融危機と生態系の危機が証左である。

バタフライ・エフェクトを証明することも否定することも難しい。

2020年のコロナ禍、まさに誰も想像できなかった。疫病が流行ると予言していた人はいくらかあったけれど、都市が封鎖され、航空機が飛ばなくなり、グローバル化とは逆の意味で世界が小さくなった。

Pierre Huyghe creates situations in which these conditions operate on a smaller scale, alerting us to the fact that we can never fully grasp the world or know what the future holds.

ピエール・ユイグは、先行きの見えない世界の状況をより小さなスケールで描き出し、世界を完全に把握したり、未来を知ることができないと我々に警告している。

彼の30年のキャリアでは、アクアリウム、放棄されたスケートリンク、南極への調査旅行、記憶とアイデンティティをテーマにした多数の映像作品。《Human Mask》(2014)では、福島の立ち入り禁止区域内に見える建物の中で仮面を被ったサルの映像作品を制作した。人と人外のコラボレーション。

ピエール・ユイグ。1962年のパリ生まれ、もともとは生物学の勉強をしていたらしいが、芸術に転向する。1985年の『Les immatériaux』をフィリップ・パレーノとともに見て、衝撃を受けたという。22, 3歳の時なのかな。カルト的に支持された展覧会。ネットで、彼の1980年代の作品をたまたま見かけたけれど、前衛的に見える普通のペイントだった。1990年代初頭の作品からは想像もできないような。

2018年の時点で、キャリア30年としている本テキストからすると、1988年を起点としていると思う。恐らく学校を卒業したあたりだろうか。

In each of these the artist-as-creator is figured as something between watchmaker and gardener, creating systems and setting in motion their constituent parts without intervening to dictate their behaviour.

創造者としてのアーティスト。時計職人と庭師の間のように、システムを作り配役する。上演の際には介入しない。成り行きを見守る。緻密に計算するものの、実際にどうなるかは、誰にも分からない。

He describes his position in relation to the work as being “upstream” from it; his role is, he tells me by email, to “conceive the conditions” in which things happen “rather than trying to invent for the sake of it”. He builds worlds and watches them play out.

彼は作品との関係における自分の立場を作品の「上流」にあると表現している。彼の役割は、物事が起こる「条件を構想する」こと。


テキストは、dOCUMENTA 13のピエール・ユイグの作品について言及する。作品の様子は、ビデオで確認できる。

《Untilled》(2011-12)はカッセル郊外の庭園にある。

友人と2人で野原を向かっていくと、石の破片の山、コンクリート・スラブ、蜂の羽音、樫木が倒れており、頭部が蜂の巣になっている裸体の彫像。そして片側の前足だけをピンク色に塗装されたグレイハウンド。この作品が、こうした作品であることを知っていたが、作品がどこで終わり、外の世界がどこから始まったのかを知る方法が無かった。

there was little way of knowing where the artwork ended and the outside world began.

このインスタレーション、Youtube映像で見ることはできるものの、こうした作品の中に入り込んで没入すること。そうしたからこそ、このような感想がでてくると思う。

同じような感覚が『岡山芸術交流2019』でもあった。


現実と表象の境界線の解消は、当初からピエール・ユイグの作品に脈打っていた。1990年代の作品、看板プロジェクトのひとつ《Chantier Barbès-Rochechouart》(1994)は、建設現場で労働者を装った俳優を撮影した。その画像は、現場を見下ろすように貼られ、実際の労働者が現場に戻ってきたときに、再構築された自分自身と対面するようになっていた。

OGPのためか、タイトルのアクセント記号付きeが、”堅”になっている。建築現場をモチーフにした看板プロジェクト、そこに”堅”という文字化けという偶然が面白い。

《Chantier Barbès-Rochechouart》 (1994)


《Remake》(1994–95)は、アルフレッド・ヒッチコック監督の『リア・ウィンドウ』(1954)を素人の俳優を使ってリメイクしたもの。

《No Ghost Just a Shell》 (1999–2002)は、フィリップ・パレーノと共に日本のアニメ制作会社からアン・リーというキャラクターを買い取り、アーティストに貸し出した。ドミニク・ゴンザレス=フォステル、リアム・ギリックなどへ。

アン・リーは、岡山芸術交流でも見た。その時はティノ・セーガルの作品だった。アン・リーについては、もう少し考察を深めようと思う。

《A Journey that wasn’t》(2005) は南極にアルビノのペンギンを探しに行く映像作品。最後は巨大な動物の機械がニューヨークのセントラルパークを横切るという。Youtube でも部分的にしか映像を確認できなかった。

Huyghe told the art historian George Baker in a 2004 interview that ‘we should invent reality before filming it’, and these works go beyond the mere confusion of fact and fiction to question how our experience of the world is constructed.

ピエール・ユイグは2004年のインタビューで美術史家ジョージ・ベイカーに「現実を撮影する前に現実を発明すべきだ」と語っており、これらの作品は単なる事実と虚構の混同を超えて、世界の経験がどのように構築されているのかを問いかけています。


Back in 2012, my friend and I struggled through a thicket of brambles in pursuit of the pink-legged dog (named, we later discovered, Human) and found ourselves lost in a forest. Or at least that’s how I remember it. My memory of that day is suspect, the mental images no doubt corrupted by others that accumulated in the intervening years, and the harder I try to pick out details, the less reliable it seems. Was it really beside the hive that we encountered the dog, or did I see that in a press photograph?

(ドクメンタの作品に戻って、)私は友人とピンクの足の犬(名前は、後で見つけた”ヒューマン”)を追いかけて、茂みの中をもがいて、森の中で迷子になっているのを発見しました。少なくとも私の記憶ではそうだ。その日の私の記憶は疑わしいです、印象は数年のうちに他のモノによって変化させられる、私は詳細を思い出そうとするほど、それは信頼性が低いように見えます。私たちが犬に遭遇したのは本当に蜂の巣のそばだったのか、それとも写真で見たのか?

なんとも情景的な描写である。メディアで見たことと体験したこととの取り違い。「体験と経験」、ビューイングルームと実際に見たときの違い、数年後に思い出した時の記憶の取り違い、曖昧さ。


《The Third Memory》 (2000)は、シドニー・ルメット監督の『Dog Day Afternoon (邦題:狼たちの午後)』(1975)の元ネタであるニューヨークで起きた銀行強盗を映像化した作品。

オリジナルの事件が、映画によってどのように変化したのかを探るというもの。シドニー・ルメット監督が、メディアと社会問題をテーマにしているらしく、そうした監督の映画を、元ネタを、どのように脚色されたのか。記憶のされ方を示した。

メディアによる脚色。英語題の Dog をどうすれば、狼に訳せるのだろうか。


心は気まぐれであり、記憶は気まぐれであり、それは個人のアイデンティティーを脅かすことになる。ドクメンタの体験と記憶は、それが確かなものなのか、そうした鑑賞者の内部に作品を創り出す。

These works do not observe conventional narrative arcs and belong neither in the fleeting moment of the performance nor the quasi-eternal of the traditional art object



2018年のサーペンタインギャラリーの展示では、溝をテーマにしているという。因果律に溝を作るということ。

On large-format LED screens will flicker a series of digitally reconstructed images, produced through a combination of human and artificial intelligences, depicting monstrous, shapeshifting creatures.

大型のLEDスクリーンには、人間と人工知能を組み合わせて制作された、モンスターのような変幻自在の生物を描いたデジタル再構築された一連のイメージが点滅する。


These are the fruits of an unusual process: first, the artist thought up a situation – a “new world”, he tells me, in which “animal, human and sentient machines share a common imaginary feature” – and asked someone else to imagine it.

まず、作家は「動物、人間、知覚機械が共通の想像上の特徴を共有している」状況、つまり「新しい世界」を考え出し、それを誰かに想像してもらう、と彼は教えてくれました。

ディープ・ニューラル・ネットワークによってモンスターのような微生物のような、つまり顔のイメージを見せ続ける大型のLEDパネル。それはギャラリーにやってきた人達の行動によっても変化する。

カッセルの蜜蜂と共に作り上げる彫刻と同じように、人工知能と人間とによって共創する社会、アルタナティブな社会を見せようとしているのかもしれない。


ミュンスターの彫刻プロジェクトの作品。《After ALife Ahead》(2017)は、廃墟になったアイス・スケート・リンクに設置された。


ここには孔雀が歩いていたり、アクアリウムも設置されている。氷河期の時代の地層にまで掘り下げられた地面、スケートリンクはカットされている。

アーティストが自分の作ったシナリオのコントロールを放棄するように、鑑賞者は自分の位置や影響力を完全に理解しようとする幻想を放棄するように促される。



南極への旅の映像作品を作ることにおいての問いかけ

The work questions whether it is ever possible to bring something back from another place, whether that something might be an albino penguin or a fading memory.

この作品は、何かを別の場所から持ち帰ることは可能なのか、それがアルビノペンギンなのか、それとも消えゆく記憶なのかを問いかけています。


The subjective experience of other participants in the world – whether a different species, a rock or an artificial intelligence – can never be properly reconstructed in the human mind, as Thomas Nagel’s celebrated essay ‘What Is It Like to Be a Bat?’ (1974) made clear.

世界の他の参加者の主観的な経験は、異種族であれ、岩であれ、人工知能であれ、人間の心の中で適切に再構築することは決してできない。トマス・ネーゲルの有名なエッセイ「コウモリであるとはどのようなことか?」(1974年)が明らかにしている。

記憶について語る。世界の見え方について語る。その見え方というのは、人のみでなく、植物、動物、岩や、機械でさえも、それぞれの世界の見え方があり、そうした記憶が宿る。そうした記憶を編み込んで、世界が構成されている。

 


《Umwelt》 (2011)。ベルリンのギャラリーで1万匹のアリと50匹のクモを自由にさせた作品(!)。アリとクモは異なるパターンで行動する。

タイトルのUmweltは、生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルの『UMWELT UND INNENWELT DER TIERE』から取られた。

なんと、日本語版も出版されていた。

Umweltは、環境と訳せばよいか。


Jakob von Uexküll’s description of the idiosyncratic world that each person perceives around them – warns against the assumption that we can in the fullest sense understand such behaviours. We might know that most spiders are conditioned by evolution to seek out solitude, but we can never know how that solitude feels to a spider. (中略)simply observing the behaviour of these species provokes a sense of awe beside the realisation of how little we understand.

ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの記述は、各人が自分の周りで知覚する特異な世界についての記述であり、私たちがそのような行動を完全な意味で理解することができるという仮定に反して警告している。ほとんどのクモは進化によって孤独を求めるように条件付けされていることはわかっていても、その孤独がクモにとってどのように感じられるのかを知ることはできない。(中略)これらの種の行動を観察するだけで、私たちがどれほど理解していないかを実感すると同時に、畏敬の念が湧いてくる。


2018年のサーペンタインギャラリーで展示された《UUmwelt》はハエだったけれど、なぜ、Uが重ねられたのかは、先のリンクのビデオでキュレーターが語っている。そして、気になるのは、2019年の岡山芸術交流で展示された《Not yet titled》へ関連があるのか、無いのか。2018年の作品から、京都大学との協力が始まっているようだ。


 


That other species and cultures must remain unknowable is not, in Huyghe’s work, an admission of defeat so much as an acknowledgement of difference and a warning against the belief that we can systematise, taxonomise and thus exercise control over them.

他人の気持ちがわかる。多種族の気持ちが分かるというのは幻想である。それを認識すること。この認識することが敗北と感じてしまうことがある。西洋的な考え方だろうか。日本としては、そもそも環境というか、流れに身をまかせるというか、そうした環境に包み込まれるという感覚があった。

自然をコントロールする。そうした古い考え方を転換せねばならない。そうしたことを内側から湧き出させる。そんなメッセージを発していると、Ben Eastham は結論づけているようだ。

There is nothing more ignorant than to assume that one knows or is capable of knowing everything, and so Huyghe provokes the puzzlement and indeed wonder that stimulates the creative imagination and is at the root of all intellectual endeavour.

人はすべてを知っている、あるいはすべてを知ることができると思い込むことほど無知なことはない。このようにユイグは、創造的な想像力を刺激し、すべての知的努力の根源である当惑と実際の驚きを呼び起こしている。








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